天狗風
かつては義経に剣術を教えたとも言われる存在は、勝呂にとっては悪魔と言うよりも、もう少し身近な存在で、はっきりと悪魔と断ずることが出来ない居心地の悪さがあった。いずれはこの居心地の悪さとどこかできちんと折り合いをつけなければならないのだろう。
心に棘が刺さったままではあったが、今は無事に廉造が帰ってきたことに、安堵していた。あれから三日、正十字総合病院へ搬送された廉造はまだ目を覚まさない。勝呂は出来るだけ時間を見つけては、彼の傍に居るようにした。目が覚めたらどうしても彼の態度を問い質したかったからだ。そんな性急にしなくても、と言う躊躇いもあったが、回復すればきっとあれやこれやと言い逃れをしたり、誤魔化すような態度を取るだろう。
廉造がふざけて、勝呂が呆れるか、怒って殴る。あるいは、話を逸らすのにあんなことやこんなことに雪崩れ込んでしまって、結局聞けず仕舞いになるのが常なのだ。それを許してしまう自分もどうかと思うが、今回ばかりはそんなことはさせない。
そう言う意味では、今回の任務と廉造の不在はまるで天狗風が通り過ぎたようだった。突如吹いてきた強い風が帳をめくって、その奥に隠していたもの、隠されていたものが露わになったように思える。勝呂にとっては廉造とのことを改めて考えるいい機会になったとも言える。あくまで勝呂にとって、ではあるが。
小さく声が漏れて、廉造がかすかに身じろぎする。勝呂はその様子を固唾を呑んで見守る。手にしていた教科書は開いたまま、ほとんど進んでいなかった。換気のために開けた窓から、少し肌寒い風が吹き込んでくる。もうそろそろ閉めても良いかも知れない。だが、出来れば目が覚める瞬間を見逃したくなかった。
「ん……」
聞き慣れた寝起きの声がして、もぞもぞと手足を動かすのも、勝呂にとってはもう見慣れた動きだが、もう幾日も見ていなかった。妙に懐かしい気がしてしまう。目を開けたいような、まだ目を開けたくないような、ごねた動きをしてふと目が開いた。
「あれ……」
「目ぇ覚めたか」
勉強していた風を装って、素っ気なく声をかける。
「アンタ……だれ?」
きょとんとしたような顔で廉造が勝呂を見上げて口にした言葉に、ざっと血の気が引く。頭を打った様子はない、と言う医者の見立てだったので、安心していたのだ。その不意をつかれた勝呂の心臓が一つ跳ね上がった。みっともないほど手が震える。
「うそですて、坊」
廉造がにひゃ、と笑った。
「あれ? 信じちゃいました?」
アンタ意外に単純やなぁ、なんて軽口を叩いて、あははと笑う。
なんだと? 勝呂は思わず拳を握った。あんなに心配させておいて、目を覚ました途端、性質の悪い冗談をするか?
「どつきまわされたいんか!」
怒鳴って胸倉を掴む。
「わぁ。いきなりハードに怒ったはりますなぁ。あ、なんかアバラが……、ぴし、て」
堪忍堪忍、と廉造がもろ手を挙げる。その勝呂の怒りのほどを全く考えていない態度に、最後まで残しておいた堪忍袋の緒が切れた。
「お前、なんやその冗談! 人をからかうんもたいがいに……っ!」
廉造の手が頬に伸びてきて、勝呂の頬にそっと触れた。
「お前、そんな手くわ……」
もっと怒鳴りつけてやろうと思ったのに、廉造の苦しそうな顔を見たら、言葉がそれ以上出てこなかった。
「ホンマは……、嘘て言わんどこて思うてたんですわ」
きゅう、と胸が締め付けられるような気がした。
「なん……」
さっきから一度もまともに、言いたいことすら言えていない。
「そいで、もう全部捨てたろ、思うてたんですわ。でも、アンタが必死に素っ気ない振りしてんの見たら、ムリでしたわ。顔真っ赤にしはって、可愛らしいの、ホンマ卑怯や」
何か言ってやらねば。このバカなことを言ってるバカに、がつんと言ってやらねば。なのに、口が二、三度ぱくぱくと動いただけで一言も出てこなかった。坊? なんて無邪気な顔で覗き込んでくるコイツには、言いたい文句が一杯あったはずだ。なのに。
失ってしまったかと思った。何よりも大事な存在を。世界が足元から崩れるのではないか、と思うほど体中から力が抜けそうだった。
それなのに――、冗談だと?
「こン……、どアホゥが!」
掴んだ胸倉を引き上げて、そのまま寝床にどすん、と叩き込む。ふぎゃ、と廉造の情けない叫び声が上がる。
「あいたぁ……、肋骨イッてもうたかも、イテ……」
苦しげな顔に手がビクリと止まる。確かに医師からヒビが入っている、と言われた覚えがある。最後の一押しをしてしまっただろうか。廉造がそんな勝呂を見てくすりと笑う。
「引っ掛かった」
ぶちん、と何かが切れた音が頭の中で響いたような気がした。胸倉を掴むと、腕に体重をかけて首筋を押さえつける。廉造がぐえ、と声を洩らし、勝呂の腕を降参、とばかりに叩く。それに構わずくっついてしまいそうな近距離から、廉造の目を捉えて睨みつける。
「お前なぁ……! 俺らが……」
勝呂は言い直した。
「俺が! どんだけ心配したと思うてんねや。お前が何ぞ悩んどるの、俺が判らんと思うか! 問い詰めたろてやっと助け出した思うたら、全部捨てる? ふざけるなや。お前は俺のもんや。いやや言うても絶対離したらんからな。判ったか!」
覗き込まれるのを嫌がって目を逸らそうとするのを、勝呂は力に任せて揺さぶる。
「目ぇ、逸らすな!」
勝呂に怒鳴られて、何度か口を開こうとしては言葉を飲み込むのを繰り返した廉造が、消え入りそうな声でやっと呟く。
「……、俺のことでアンタのこと苦しめたないし……」
堰を切ったように廉造が投げやりな言葉をぶつけてくる。
「……アンタ、明陀立て直すんやろ。エラい難儀やろて、俺でも判るわ。それもアンタの代で終わるかどうか。それなのに俺とのことまで抱えるつもりなんか? そうやとしたらアンタ変態すぎるわ」
開け放したままの窓がガタガタと鳴ったかと思うと、ざぁっ、と音がして突風が吹き込んでくる。煽られてカーテンがバタバタバタ、とはためいて大きな音を立てた。廉造と勝呂の二人を吹き飛ばす勢いで襲い掛かって、一瞬二人を取り巻いたかと思うと、あっという間に通り過ぎていく。
「だから、お前が俺の傍おったらエエやろ」
弾かれたように廉造が勝呂を見上げてくる。
「アンタ話聞いて……」
「お前が居らな、明陀立て直したかて意味あれへん。そう思うようにしてもうたんは、お前や」
アホやろ……。廉造がなんとも言えない顔をしながら呟く。
「ああ、俺はアホや。悪いか。言うとくけどな、昨日今日の話やあれへんぞ。俺は腹ァ、括った」
勝呂はどすん、と人差し指で廉造の胸を突いた。
「俺が大変やと思うんなら、お前が責任とって傍に居り」
きょとんとした顔をしていた廉造が、自分の言いたいことを理解したのか泣きそうな顔をしてふにゃりと笑った。
「俺、結構重い男ですよ」
「上等や。やってみぃ」
病院の寝巻きを掴む勝呂の手に、廉造がそっと手を重ねる。その手が僅かに震えていた。
「アンタ、ホンマ変態やで」
「……ちょお、黙り」