仁義なきバレンタイン
不測の事態があったので忘れていたが、そういえば実際用事はあったのだ。積極的に会いたい相手ではないけれど、まあ行きがかり上というか何というか…とにかく会わなければならない。そして話すべきことがいくつかと、頼みたいことがいくつか。用があるのは大佐だからじゃない、大佐が「大佐」の肩書き付きだからだ、と必死に自分を宥めながら彼は歩いていく。
「……平和だよな…」
が、ふと足を止めて、―――あたりを見回し、エドは溜息ひとつ。
いや、平和なのは結構なことだ。争いが絶えないよりずっといいだろう。…だが、本当に、軍がこんなことでいいのだろうか?この国は大丈夫なのか?
エドの眉間に皺が寄ってくる。
あたりは、「バックオーライ、バックオーライ、…よっしOK牧場!」だの「第八仮設倉庫がもう手一杯だ、十番以降の設営急げよ」だの「おまえどっちに賭ける?俺ホークアイ中尉」だの…およそ軍人が集う場所とも思えぬ喧騒に満ちている。エドだって何も規律や規則にうるさい方ではないが、…ないが、やはりそこはまだ少年。こんなことでいいのか?と頭を抱えたくなってしまうのも無理はない。
…だが、いつまでもそんな連中に頭を悩ませていてもしょうがない。エドは一度かぶりを振って、再び歩き出そう―――と、した。したのだが、「それ」に目がとまって再度凍りつく。いや、再度というか…むしろ今度は本当に固まってしまった。顔を引きつらせ、目を見開き「それ」を凝視する。
『打倒中尉!』
…なんじゃこりゃ…!?
出来ることならもう、「やってられるか」とすべて投げ出しこの場を後にしたかった。それくらい呆れた。心底からだ。
…エドも、何度か見たことはあった。それは東方司令部で(実に平和なことに!)毎月出されている「今月の標語」に違いなく、大体過去の事例に照らし合わせると、「廊下は走らない」「提出期限厳守」「手洗いうがいをきちんと」…なんてものが張り出されていたりしたわけだが。(ちなみに余談だが、それを見るとエドはいつもしょっぱい気分になるのだった)
なんだよ、打倒中尉って…。
エドは絶句し、まじまじとその張り紙を見つめた。
それが「今月の標語」であることは、張り紙の左下に捺されている印鑑から明らかである。…「掲示期間/二月」「責任者/ホークアイ」の二つの印鑑から。
―――そう。
掲示物の管理はホークアイ中尉が行っている。一度何かの折に聞いた事があったのだけれど、考えるのは誰か別の人間であることがほぼだが、それを一度チェックし、妥当であるかどうかを判断するのは中尉なのだそうだ。
…ということは、中尉はこんなふざけた標語に印鑑捺したのか…。
エドはがっくりと肩を落とした。そして、遅ればせながら先ほどの両少尉の会話がすとんと胸に落ちてくる。
―――おまえ今月の標語見たか?あれ俺ちょっと引いた。
―――だから、そんくらい本気なんだろ。しかもあっさり『よろしいんじゃないですか』なんて言われちまって、余計にプライドずたずたなんじゃねーの?
オレもちょっと引いたよ、ハボック少尉…。
エドは心の中で呼びかけた。
…彼らの会話から察するに、この標語は大佐が提出したものだろう。そこにハンコを捺すのはまさにその、彼が打倒を誓う中尉だというのだからそれはもう宣戦布告に等しいわけで、まさか「あの」ホークアイ中尉にそんなことをぶちかますあたりはやっぱり彼は大物なのだろうけれど…なのだろうけど…。
「…大物っていうか…馬鹿?」
ぼそりとエドは呟いた。
そうだ、単なる馬鹿だ。ド馬鹿だ。哀れなる馬鹿だ。
そしてその馬鹿王に頼らなければならない自分は、…本気で可哀相だ。
「…ハァ〜…」
だが自分を憐れんでいても始まらない。仕方なく、ますます重くなった足を引きずるように、エドはまた歩き出したのだった。
ごんごん、と乱暴にだがノックをしつつ、「入るぞ」と声をかけながら、がちゃりとエドはノブを回した。すると、先ほどの奇怪な風体は改めたらしいロイが、素直にデスクについていた。
「……」
当たり前の光景ではあるのだが、何しろ先ほどがあまりにおかしかったので、どうにも疑わしい。エドはぱちぱちと瞬きした。おかしい。何か隠しているのではないだろうか。
「…鋼の?」
怪訝そうな顔で最初の一歩以降入ってこようとしない少年に、ロイは不思議そうな顔をする。
「どうした?入ってきなさい」
「………」
そして勧めるのだが、少年はやはり何かを警戒した様子で、入ってこようとしない。
「…鋼の。…ドアが開いたままだと寒いんだが」
仕方なし、溜息混じりにそう訴えると、はっとした顔でエドはドアを閉めた。そして、ほんの少しだけ中に入ってきた。
―――これでは野良猫と一緒である。
「やぁ。よく来たね」
何事もなかったかのような態度で、ロイは声をかけてくる。だがエドの疑心は膨らむばかりだ。
「…おぅ」
とはいえ、いつまでも黙りこくっているわけにもいかない。用事をとっとと済ませてしまおう、とばかり、重い口を開く。
「あのな…、大佐に頼みたいことあって」
「なんだ?」
何でも言ってくれ、とばかり、ロイは笑う。そして「立ってないで座ったらどうだ」とソファを示した。だが長居したくないエドは戸惑う。
「何も取って食おうというのじゃない。お茶でもどうだ?」
「…いや、…喉渇いてないし」
ぼそりと答え、だがやはりいかにも立ち去りたい素振りを出しすぎるのも大人気ないか、とエドはソファに腰を落ち着けることにした。何だかんだで、彼は兄気質なのだ。
「どうした?」
「あ…、ああ、うん…その、これなんだけど」
エドはしまいこんでいた紙を取り出し、たたんであったそれを伸ばしながらロイに手渡した。とある施設への入所許可を申請するものだが、…国家錬金術師の資格を持つとはいえ未成年のエドに、所長が入所を渋ったのだ。どうしても見学したいのなら誰か…、保護者か監督者のサインをもらっておいでと門前払いされた。この場合、たとえばピナコのサインをもらったとしても無駄だろう、というのはわかる。だから、渋々ロイを訪れたのだった。他に、適当な人間が思いつかなかったし…、一応エドを推挙したのはロイだから、まあやはり彼に頼むのが筋だろう。
…物凄く、気が進まなかったが。
「…タンタロス…生化学研究所…、…ああ…」
書類を受取ったロイは、一瞬難しい顔をした。
「…駄目か?」
「…。駄目、というのではないが…、気は進まないね、確かに」
所長の気持ちも解る、とロイは苦笑した。肩を竦めながら。
「なんで?」
「…気持ちのいい場所ではないよ。まして…」
その先は、言いよどんでしまった。
―――まして、ほんの子供のようなエドに進んで見せてやりたい場所でもない、と。
だが、エドは見かけほどに幼い子供ではないし、いたいけでも、始終守ってやらなければならないほど脆弱な生き物でもない。
ロイは一度軽く頭を振った。そして、苦い笑みの気配をどこかに残したまま、ペンを取り出した。
「…サインでいいのか?」
「うん」
エドはこくりと頷いた。
作品名:仁義なきバレンタイン 作家名:スサ