年上の男の子
エドの口調が改まったものになる。人は、えてして理解しがたいものにぶち当たった時、そういう反応を示す。
「なにかしら?」
果たして、中尉は鷹揚に首を傾げた。優美とすら感じられる仕草だった。エドは息を飲んで、そんな彼女に重々しく告げる。
「オレ、男なんですけど」
中尉の表情は―――毛ほども変わらなかった。
「それは見れば判るわ。ねえ、少尉」
「そうだぞ。俺ら連れションの仲じゃねえか」
「…少尉」
「あっすいません中尉」
「…。えっと、じゃあ、男なのは、問題ない、と」
こめかみを押さえながら、エドはそれでも果敢に抵抗を続けた。
「ないわね」
「ねえな」
しかし、何が気になるのか判らない、といった調子で、ふたりはあっさり答えてしまった。エドが望むのとは反対方向の答えを。
「…。じゃ、じゃあ、ですね。オレはまだ一応未成年の子供なんですけど…」
これならどうだ、とエドはふたりを見上げた。が。
「でも、エドワード君は国家錬金術師だもの」
何でもないことのように、中尉が答えた。エドは目を点にする。
「え」
「そうそう。立派な国家資格をもった立派な錬金術師なんだから、ただの未成年とは言い難いなあ。階級だけなら俺らよりおまえのが偉いんだし」
「―――――――――」
エドの顔から血の気が引いた。
そういえばそうだった…!
「それに、あなたほどの腕があれば、その辺の大人にも引けを取らないでしょうし」
「そうだぞ大将。司令部で組み手やったって、おまえに勝てるのいないだろうが」
「東方には錬金術師が少ないから、大佐としても同好の士として何かと私たちでは出来ない話が出来るでしょうし…」
「うんうん、俺等にはれんせーじんがどうとか、そういうのさっぱりだもんなぁ…」
エドは頭痛を感じた。誰か、これは悪い夢だと言って欲しい。しかし、そう言ってくれそうな筆頭のホークアイ中尉からしてこんなわけのわからないことを真剣に仰ってくれちゃっているのだ。他に一体誰がこの東方司令部でエドの悪夢を覚ましてくれるというのだろう。―――誰もいない。思いつかない。
「…諦めろ」
な、とハボックが飄々と告げた。
「エドワード君、お願い」
中尉は、幾分優しげな声を作って駄目押しとばかりもう一度繰り返した。
「………………………………………………………………」
しばしの沈黙。
「…。考えるだけ、なら」
そして、とうとうそこまで妥協してしまったのである。
そこまで許したら、既に内堀まで埋められたようなものだとも気付かずに。エドワード・エルリックともあろう者が、である。
「…ていうか、…あんたら上司を甘やかしすぎ」
結局、彼に出来たのは、悔し紛れにそうぼやくことだけだった。
手当てが終わり、エドは宛がわれた宿舎の一室に案内されていた。荷物は既に運び込まれていたが、弟の姿はない。ホークアイに何事か言いつけられているそうだが…何をしているのやら。
「…ハァ」
それにしても、と思う。
一体全体、何がどうしてこんなことになったのか。
「…くそっ。予定が全部狂っちまった」
本来ならば、今頃は既に中央と東部の境に向かって、出発しているはずだった。そこで乗り換えて西部へ向かう予定だったのに。それもこれも、皆あの馬鹿大佐がいけないのだ。…と、思う。
エドは、ベッドに腰を降ろすと、痛めた背中を労わってそっと横たわった。そして、昨日あの男の頭を撫でてやった手を持ち上げる。
意外とやわらかい感触だった。ありゃ将来ハゲるかもな、本人が聞いたらさぞかしショックを受けそうなことを、エドは冷静に考えた。
「……。ほんっと…わからん」
思い出すのはしかし、感触よりも、それを喜んでいたあの無邪気な顔だ。アレくらいの年の男に「無邪気」も何もないものだが、とはいえ、あれを評するには無邪気以外の言葉が思いつかないエドだった。
「なーにが…『鋼のはやさしいな』だ」
ああいう顔をされると、弱い。
強いものにはどこまでも強く出られるエドだったが、反対に弱いものとか女子供、動物なんかには(禁句を口にされればともかく)強く出られない性質である。
「へらへらしやがって…」
わからん、ともう一度呟いて、エドは目を閉じた。昨夜からの大騒ぎで、あまり寝ていない。寝ることは寝たが、やはりもう少し休息が欲しかった。一段落着いたら、一気に疲労感が蘇ってきたのは無理もないことだっただろう。
うとうととまどろむのを止めるものは、ここにはいない。エドは本能のまま、瞼を落とした。
…そうして、どれくらいの時が経っただろう。多分それほどの時間は経っていなかったのだろうが、とにかくそれはエドが夢うつつの状態でのことだった。
パタン、と小さな音がして、誰かが部屋に入ってきたらしいことを意識のどこかで捉えていた。
しかし、その気配には警戒を抱かせるようなところが欠片も混じっておらず、どころか、どこかで知っている波長でさえあった。なんだ、知り合いか、とエドは特に目覚める必要も覚えない。これが殺意を撒き散らしているような、獰猛な気配だというなら話も変わってくるが、その気配にはそんなものは一切感じられなかったのだ。
足音を立てない歩き方は、穏やかさを感じさせる。
近づいてくる気配は、その息遣いはゆったりしていた。ということは、興奮状態にもない、ということだ。まず、安心してよいだろう。
―――あ。
エドは、目を閉じたままその感触を知る。
「………」
その誰かは、とす、とエドのベッドの脇、床に膝をついたらしい。何となく翳った光線でそれを知る。だが、それでもまだ彼は目を開けない。それくらいに、その誰かが放つ気配は穏やかで、親愛に満ちたものだった。
やがて大きめな手が、そっとエドの前髪を払った。頬の微妙なところにかかっていたそれは、くすぐったさを作ってもいたので、エドは心地良さを感じる。知らず、その口許が緩んだことを知るのは、少年のベッドの脇に跪いた「誰か」だ。
「―――はがねの」
と、夢うつつのエドの耳に、微風のように小さな声が飛び込んできた。
「…っ」
体は意識に追いつかず、エドは目だけを勢いよく開いた。そこには、幾分驚いた顔をした、あの男がいた。
「…………」
「…………」
ふたりは、互いに見つめ合ったまま、しばらく何も言わなかった。
「…鋼の」
やがて口火を切ったのは、侵入者の方だった。
「…。なんだ、甘えたの酔っぱらい」
それに辛口で返せば、男は複雑な顔をして黙り込んだ。
「あんたな。あんたの部下に、オレはあんたと付き合えと言われたぞ。一体あんた、普段部下に…、おい?」
聞いてるのか、とさらにかぶせようとすれば、ロイはたまらない、という顔で口を押さえて俯いた。…はっきりいって、ちょっと気味が悪い
「…はがねの」
「あんだよ…」
「…その声、…やめてくれないか…」
ロイはようよう、搾り出す、という調子でそれだけ言った。は?とエドは眉間に皺を寄せる。まだ体の方は力が入らず、横を向いて寝ている姿勢は変わらない。
「…ちょっと…日も高いうちからそういう気分に…は…」
「――――――――――――――――――」
エドは、絶句した。