年上の男の子
「……、…」
ああ、とエドは嘆息ひとつ。
「はがねの?」
俯いてしまったエドに、いささか慌てた様子でロイは声をかける。身を寄せたせいで、いっそう少年の白い顔が翳った。
「……」
ちょい、とエドの指がロイを呼んだ。男は呼ばれるままに顔を寄せる。
「…は、」
そこで、不意打ちにキスをひとつ。
「―――!」
ロイは目を見開いて、下から自分の唇を奪った少年を凝視する。彼は唇を重ねるだけで離れたが、…照れているようではなかった。残念ながら。
「…オレも…」
エドは目を閉じながら呟いた。そうしながら、思い出すのはこの男に関する色々なこと。
―――ああ、本当に…。
最初に好きだと言われたのはいつだったっけ。確かなにかの話のついで、脈絡もなく言われた。気色悪いも何もなく、はいはいありがとうよ、と流した覚えがある。それから似たようなことが数回あった、…かもしれないが、記憶は定かでない。そして今回。挨拶に寄る時間がなさそうだ、と彼の部下に語った言葉ひとつで場末の歓楽街まで自分を探しにきた。
…なんという馬鹿。それも、…自惚れではないだろう、「鋼の」バカ。
捨て犬を捨てきれない気持ち、なんて言ったら不本意なのかもしれないが、…ああ、馬鹿な子ほど可愛いとも言うし。どうしよう、胸がほわほわする。大佐の頭をぐりぐり撫でてやりたい…。
「…オレも、あんたのこと好きみたい」
考えながら、そう、とにかく物凄いスピードで頭を回転させながら、それでも具象として世界に顕現したのは、そんな月並みな短い台詞が一つ。
まあそれでも、マスタング大佐の思考を止めるには充分すぎる程の威力を持っていたようだが。
エドはちらりとロイを見上げた。男は、鳩が豆鉄砲食らったような顔をして、こちらを見つめていた。その顔があんまりにも間抜けだったので、エドは片頬で笑う。大人びた笑みだった。それで、弾かれたようにロイは身じろぐ。
「はっ…がねの…っ」
エドは視線で答えた。なんだ、と。その心預けた様子が嬉しくてならず、ロイは心底からの歓喜に溢れた顔をしてみせた。そのあけすけな表情に、エドの頬がうっすら染まったことに、残念ながらロイは気づくことがなかった。
[3]
さて。なんだかなし崩しという気もしなくはないが、とにもかくにも、晴れて焔と鋼は東方司令部公認の許いわゆるお付き合いというソレを始めた。ちなみにエドは最低半月の絶対安静を軍医から言い渡されている(どうも手当てしたその日のうちに派手に動いてさらに状態を悪化させたらしい)ため、普段と比べて大分長逗留となっていた。
お付き合いを始めたばかりの若い二人が、しかも普段は滅多に顔を合わさない二人が、ひとつところに(近所に)いたのなら。それはもう、色々と、進展したりもするのだろう。…普通ならば。
だが生憎、彼らは普通ではなかった。では何かといわれると困るが、とにかく彼らに限って「普通」というのだけはありえない。何しろ歩く万国ビックリショーなふたりなのだ。単純な乗算以上の破壊力をもつこと、疑いなし。
雨が降るんじゃないか、いや槍かも、と陰で言われながらも、ロイはいつになく真面目にデスクワークを片付けていた。その理由は、応接テーブルや絨毯に分厚い本を積み上げた子供にある。彼は今、ソファに座り込んで黙々とお勉強中だ。
片や黙々とお仕事。
片や黙々とお勉強。
部屋にはさらさらと流れるペンの音と、ぱらりぱらりというページを繰る音が満ちている。とても静かな空間。それを割るのが躊躇われるほどに。
しかし沈黙はけして気詰まりなものでもなく、それは双方の顔を見ればよくわかった。
「…はがねの、」
「…。ン…?」
エドはページから目を上げることなく、…だが奇跡的に一応返事らしきものを返した。ロイは大袈裟にほっとして、しかし、すぐに気を引き締めるように顔を作り直すと、いそいそとソファへ向かった。とうとうすることがなくなったようだった。やって終わらない仕事などない、ということを、彼も知らなかったわけではなかったらしい。ただ今まで実行しなかっただけで。
「……なに」
エドの近くで足を止めれば、意識の向いていなそうな声がそれでもそう返してきた。やはり気をよくして、ロイはエドの前に回りこんだ。そして、膝をついて下から子供の顔を覗き込む。
エドは、読書用だという眼鏡をしていた。黒ブチのそれはいくらか野暮ったくもあったのだが、エドがかけると奇妙な愛嬌のようなものが出て、…まあ単純にありていに言うのなら可愛らしい出来映えだった。
「…ずっと同じ姿勢はよくないよ。その…肩がこる」
すると、ちらり、とエドがロイの顔を一瞥した。それから溜息。それがいやに大きく聞こえたのは、…気のせいだとロイは片付けた。
「―――大佐」
「なんだい」
「…かまってほしいの?」
エドは、ページを繰りながら、ひとりごとのようにささやかに尋ねてきた。
ロイは思わず口を開けて黙り込んでしまった。そんな。これでは、まるで。自分の方が子供のようではないか。
「…かまってほしいね。…このままではやきもちで本を燃やしてしまいそうだ」
だが、本当のことだったので、ロイはあっさり白旗を降った。負けるが勝ち、と思いながら。大人になることとは、意地のために自分の都合を悪くするようなへまはしなくなる、ということでもある。
「………」
エドはようやく、本から顔を上げた。それからおもむろに口を開く。
「…東方司令部で謎の出火。原因は司令官ロイ・マスタング大佐(二九)の錬成ミスと言われるが、関係者は口を閉ざしている。今後の氏の進退が注目されているが、現在処置は下されていない模様―――」
淡々とエドは言った。新聞記事のような口調だった。
「………ごめんなさい燃やしません」
「あったりまえだ馬鹿」
ふん、とエドは鼻を鳴らした。それから…少し困ったように小首を傾げる。
「…鋼の?」
「…しょうがないから、五分休憩な。大佐も飽きたんだろ?仕事」
がしがしと頭をかきながら、それでも意外と優しげに少年は言うのだ。
「………」
エドの本質が「兄」だと覚るのはこんな時である。ロイはくすりと笑った。
「―――鋼の」
「ん?」
「キス、してもいいかな」
「……別に、いいけど」
エドは数度瞬きして、それから、しょうがないな、という顔で笑って許した。照れたようではなかったのが少し残念だったが、そんな贅沢は敵だ。欲しがりません勝つまでは。
エドの足の間に膝をついたまま、その膝に左手を置いて上体を伸ばした。右手は幼い頬を捉えて、目を閉じる。少し顔を斜めにして、掬い上げるように口づけた。ちゅ、と可愛らしい音を立ててすぐに離れれば、エドは目を閉じていなかった。
「…目は閉じてくれないか」
すると―――エドは笑った。それはその顔立ちに似合わぬ大人びたもので、ロイはまたしても自分が子ども扱いされているような、そんな感覚を抱いた。
「…大佐って意外と睫毛長いのな?」
「…は…?」
エドはその白い肌を目元だけふんわりと染めた。淡く色づく様に、ロイは唾を飲んだ。
「…それから…、ここが」