箱庭
なぜなら彼らは人並外れた、桁違いの力を有する錬金術師であったから、その気になればそのあたりの地形を変えることも不可能ではなかった。つまり、再構築である。
だがそんな大掛かりな錬成は大いに気力体力を消耗するし、それに、発光現象の報告も気になる。新たな錬成をかぶせることが、新たな危険を生まないともいえない。だとすればやはり、慎重にならざるを得ないのだ。…それに、あまり地図をかえるのは感心できたことではないだろう。
となればやはり迂回するしかないのだが、山道を昼過ぎから降りようというのは無謀もいいところだった。それに、ここは人が住まなくなって久しい。道が整っているとも思えない。だとすれば、雨露を凌げる場所で捜索を待つのが無難だったし、最低でも今夜一晩はここに留まるのが安全と言えば安全だった。無論早くエドワードの目を医者に見せる必要はあったが、無理をすればかえってよくない結果を招きかねない。
そういうわけで、ロイは今、集落の跡では最も損傷の少ない小屋から、蔦やら何やらを払っていた。中である程度の時間を過ごせるようにしているのだ。エドワードを視界の隅に必ず入れながら。
「…大佐」
…と、小さく、無意識のようにエドワードが呼んだ。
そよぐ風が彼の金髪を少しだけ乱していく。…陽射しを浴び、名もない野の花の中にぽつんと佇む今の彼の姿からは、普段の苛烈さは想像も出来ない。
ロイはほんの少し目を細め、すぐには返事をしなかった。
「…、…大佐、…どっか行ったのか…」
即席の包帯に覆われていない眉が不安げに顰められる。
―――そのよるべのない頼りなげな風情に、なぜか、
「…ここにいる」
ロイはかすれた声で答え、作業を一時中断した。そしてゆっくりと歩みより、いささか腰を浮かせた少年の肩に手を置く。それから諭すように言って聞かせた。
「…どこかに行ったりなどしない。…このあたりは色々物が落ちているから、下手に立てば転ぶよ。…座っていなさい」
エドワードを再び切り株へ座らせ、ロイは…幾分迷った後そっと、本当にそっと、その小さな頭をくしゃりと撫でた。
「待てるだろう?」
「…………、…別に、…あんたどんくさそうだからちょっと心配になっただけだ」
ふい、とエドワードはそっぽを向く。その明らかな虚勢に、ロイは気付かれないよう笑いを噛み殺す。全く素直でない。…泣きそうな顔をしていたくせに。
「それは…心配してくれてありがとう。だが大丈夫だ」
「……………」
むすっとした態度で少年はそっぽを向く。だがこれも、照れ隠しだと思えば初々しくて可愛いくらいだった。
「…さっき井戸を調べたんだが、ありがたいことにまだ涸れていなかった。念のため煮沸はするが、水が確保できたのはよかったよ」
ロイは話題を変え、見えはしないのだろうがエドワードの前膝をつく。
「野外では火を起こすのはなかなか大変だが、私に関してはそれは問題じゃあない。よかったな、鋼の」
「…そうだな、よかったな。…珍しく役に立つじゃん」
「珍しくは余計だ」
ロイは立ち上がり、笑いの気配を残したまま作業に戻る。
そんなロイを、…まるで探すように、追うようにエドワードの指が上がる。
「………もう少し待っていてくれ」
「……っ」
不安を見透かしたようなロイの言葉に、少年は首を竦め息を飲む。だがロイはそれ以上言わず、エドワードの耳には草を払う音が聞こえ始めた。
だからエドワードは知らない。
自分を求めるように伸ばされた指を、深い執着を思わせる目で男が見ていたことなど。知るわけがなかった。
日も傾き始める頃には、小屋はこざっぱりしてきていた。
ロイは色々見て回ったようで、絨毯のようなものを持ってきて床に敷いていた。その上にエドワードを座らせ、自分は案外甲斐甲斐しくあちこちを整え始める。
あたりの様子がまるでわからない少年に、ロイは、その小屋についてこう説明した。
「元は炭焼き小屋なんだろうな。釜があって…、土間から少し高いところに、仮眠を取る為だろう、ただ板をうちつけたスペースがある。今そこには絨毯を敷いた。埃は出来るだけはたいたが、横になるとちょっと痛いかもしれないな。それでも野宿よりはいいだろうが…。広さかい?広さは、…そうだな、司令官室くらいかな」
大分暖かくなったが、それでも朝夕は少し冷える。凍死するという事はないだろうが、それでもいくらかでも暖を取れるのはありがたい。野党は出なくても野犬はいるかもしれないし、建物があったのは不幸中の幸いだった。
「喉が渇いただろう?さっき煮沸した湯ももう冷めただろう。持ってくるから待っていなさい。そうだ、もう一度目もきちんと洗っておこう」
水を確保した後、少量をすぐに煮沸し、ロイはエドワードの目の周りを丁寧に清めてくれていた。だが、彼は念には念を入れたいらしい。やりすぎな、とはエドワードは思わない。そう言われればそうか、と思ったのと、気のつく男だな、と感心したくらいで。
ロイはどうやら、集落跡をあちこち見て回り、生活雑貨一式も調達してきていたらしい。それを一度洗った上でさらに熱消毒したそうだ。エドワードの予想を大いに裏切るマメさに、少年は複雑な心境である。
カップに水を満たして、ロイはエドワードの前までやって来た。そしてそっと手を取る。ぴくりと跳ねた薄い肩に目を細めてから、ロイは言った。
「零すといけない。一緒にカップを持ってくれ」
「…うん…」
エドワードは不安げに、しかし頷いた。そしておずおずとロイの手を握り返し、彼の、カップを握るもう片手を待った。程なくして確かな重みと熱とがもたらされる。カップとロイの手が、エドワードの左手をおとなったのだ。
なぜそれが右手でなく左手だったのか。右手だったら、熱を感じる事はなかっただろうに。
「……」
黙ってなすがままになっている少年をじっと見つめながら、ロイは、丁寧な手つきで彼に水を飲ませる。こくり、と嚥下されるごと、かすかに動く喉。それから濡れて光る唇。
「…も、いい」
やがてエドワードは片手を上げ、もういいと示した。ロイはそれを受け、カップをそっと引き離す。当然のように、エドワードの手とロイの手も離れる。
「…水が」
え、と思う間もなく、エドワードの口元、どこかかさついたように感じる何かが触れた。ロイの指だった。彼は、少年が唇の際に残した水滴をそっと拭ったのだ。
「………、わり…」
驚いたものの―――怒る事でもない、と判断し、エドワードは困惑気味に一応の礼を口にした。
「…いや…私こそ突然すまない」
「え? …別に大佐が謝ることじゃないだろ」
エドワードは不思議そうに首を傾げた。
そうだ。確かに、彼は別に謝るようなことをしたわけでもない。まあ巻き込んでくれたなと思わないわけでもないが、しかしこれはロイの嫌がらせではないのだ。軍属である以上、こういう場合には何らかの役に立たなければいけないのは道理だろう。まして、普段はあまり考えないが…ロイには借りがあるのだし。
あどけない空気をにじませる少年に、ロイは苦い笑みを浮かべながら心の中でもう一度謝る。
―――この怪我がとても、致命的な大怪我ならいい。