箱庭
治してやらなければと思うのと同じくらい、そうも思っていた。そんな自分に吐気を感じたが、…だが、それならいいと願ってしまう気持ちを否定出来ない。
もしもこれが重大な怪我で、たとえばエドワードが失明してしまったら。どうなるだろう。それはとても恐ろしく、哀れなことだ。だが、…そうなったら、もしかしたら、
(君は私を頼ってくれるかい?)
ロイは唇だけを震わせて、恐ろしい呪いの言葉でも吐くかのようにわずかな畏れを感じながら、言葉の形だけをなぞらえた。
すまないと何度も謝りながら。
その負の願いを、誰ともいえない誰かに、乞うた。
夜半。いや、明け方のこと。
ほんの少しの寒さに、エドワードは目を覚ました。だがそれははっきりとした覚醒とは言えず、夢うつつの話だった。
「…寒いか」
そんなエドワードに、ほんの少しだけかすれたロイの声がかけられる。そばにいてくれる、という安堵に、思わず少年は長い息を吐く。そして、近くにいるはずの彼を探して指先をさまよわせた。やがて、ほどなくしてそれは目的に辿り着く。さまよって揺れるその指を、ロイが捕まえたのだ。
「…ん、…さむい」
どこかとろんとした口調に、すぐには返事はない。
だが、さほど待つことなく、エドワードはしっかりとした腕に引き起こされる。そして包みこまれた。―――腕の中へ。
「くっついているといい。…今は一番寒い頃合だろう」
「…ん…、…たいさ、…起きてたのか」
「…寝ていたよ」
苦笑に続き、思ったよりもずっと無骨な指がエドワードの髪を梳いた。
「寝なさい」
「…ン」
幼げな声が落ちれば、すぐにもすー、という寝息が聞こえ始める。
しっかりと腕に抱きとめながら、ロイは、探し当てた誇り臭い外套で自分達をさらに包み込む。こうすれば少しは暖かいだろう。何より、ロイの体温分はきっと暖かいはずだった。ロイが、エドワードの体温を暖かく感じるように。
「………」
何とも名状し難い苦味を噛み締めながら、ロイはきつく目を閉じる。
本当は寝ていない。眠れなかった。エドワードが寒くないよう、古い釜でわずかに火を焚いていた。おかげで小屋の中はそれなりに暖かい。狭いのも良かったのだろう。
だが勿論、それをしていたから、火の番をしていたから眠れなかったわけではなかった。
「……早く治したまえ」
眠る子供の青褪めた頬を見ながら、ロイはぽつりと呟き、そして今は布に覆われている瞼へ口づけをひとつ落とした。祈りの仕種であったが、同時に、抑圧された深い感情を窺わせる接吻でもあった。
見咎める人は誰もなく、ただ彼の揺れる心だけが己の度し難い想いを憂えていた。
[?]
大体の位置はわかっているが、とロイは言った。
集落の跡地が大体どの辺に位置しているかはわかっているが、正確な街道へのルートまで把握しているとは言い難かった。
それに、闇雲に動き回るよりも、彼らを探しているはずの捜索隊に探して貰う努力をした方が建設的といえないこともなかった。
「…すこしこのあたりを調べてくる。すぐに戻るから、君は動かないでいてくれ」
時間の感覚もはっきりしないエドワードに、世界の見えない少年に、ロイは労わりを含んだ声で言った。珍しく反発する事もなくエドワードは頷く。それどころか、寄せられた眉は不安げでさえあった。
見えないことが不安なのだ。そして、そんな状態でひとり残されることが。
哀れに思う気持ちだけが湧いたのなら良かった、とロイは思った。そんな、不安を覚えている少年に抱いたのが哀れみだけだったら良かったのに、と。
だが実際は違ったのだ。
今の彼には自分しか頼る人間がいないという事実に―――ロイは、むしろ喜びを感じていたのである。
「…すぐに戻る」
呟くような小さな約束は、複雑な心境を押さえ込むためのものであったかもしれない。
ロイが行ってしまい、ただぽつねんとエドワードは昨日の切り株に腰掛けていた。
今日も天気がいいらしい。陽射しは暖かく、風はやわらかだ。草の匂い、鳥の声、かすかな葉ずれの気配。目を閉じていれば、ここはリゼンブールではないのかと思うほどにのどかで静かな―――懐かしい匂いのする場所だった。
光のやわらかさは朧気に感じられるものの、時間の経過が今ひとつ分からない。状況が状況だからか、不思議な事に昨日から空腹も感じないのだ。
しかし、だからといって本当に何も食べていないわけでもなかった。驚くべき事に、ロイはまったくもって甲斐甲斐しい事に、「この実は食べられる」「この草は煮出して繊維をたたき出して固めれば食べられる」「この根は味は淡白だが栄養価は高い」だの…ちょこちょこと色々探し出してきてはエドワードに与えていたからだ。おかげでエドワードはただ漫然としていただけだ。さすがに用を足すのは自分でしたが、それだって手伝おうかといわれたくらいである。無論冗談じゃないと拒否したが、滲む気配が本気を伝えさせていささか憂鬱になったのは昨日の話。
「…マメな男だな」
感想が己の劣等感を抉る事にも気付かず、エドワードはぽつりと呟いた。
あれなら確かに女にももてそうだ。あそこまで気遣われて気を悪くする人間はそうそういない。
返る答えなど当然あるはずがなく、ただ春のやわらかな微風だけがエドワードの頬を撫でていった。
「………」
昨夜、いや今朝だろうか。寒さを感じて目がさめた気がする。だが、その後、しっかりと抱き寄せられた。暖かくて安心できてまた眠ってしまったが、―――あれは、どういう事なんだろう。
彼は自分の事を一体なんだと思っているのだろう。
何だと思っていたなら、あんな風にするのだろう。
「……わかんね…」
守られているようで―――あんな安心を感じたのは恐ろしく久しぶりの事だった。嵐から自分を守る庇を捨てたのは自分自身で、それを後悔する事はないけれど、それでも…。
「…。……優しいのなんて、…反則だろ?」
エドワードは、ここにロイがいないのをいいことにそう呟いた。
相変わらず時間の経過はわからなかった。
大分経ったような気もするのだが、ロイは戻らない。段々エドワードの心に不安が満ちてくる。
「……おっせぇよ…」
切り株に腰掛けたまま、両手を下につき、彼はぐいと伸びをした。ずっと同じ姿勢でいると体が固くなってしまって困る。
「……なにやってんだよ…」
口を尖らせ、エドワードはさらに背中を伸ばす。かなり体が固くなっていた。
「…っ」
と、そのまま、彼はバランスを崩して地面に転げ落ちる。
「っ…、いて…」
自分が今どうなっているのかわからず、彼は手探りで切り株を探し立とうとする。しかしどうしたわけだかなかなかうまくいかず、何度ももがくことに。
しばらくそうやってもがいていたエドワードだが、段々無気力になってきて、そのままごろんと草の上に寝転んだ。
「………馬鹿大佐…」
そのまま包帯の下目を閉じる。
「……早く帰って来いよな。…いつまで道探してんだよ…」
ぶつくさ文句を言いつつ、彼はごろごろと草の上で転がった。胸いっぱいに広がる土の匂い、若草の匂い、花の匂い。虫の声、鳥の声、…水の音。