箱庭
「…。そっか、…川があるんだ…。…じゃあそれが地下に溜まってんのかな」
道理で井戸も涸れていないはずだ。エドワードは納得した。
誰もいない。
人間がここには誰もいない。今、自分はひとりきり。
「………」
ちちち、と遠くで鳥の声がしている。だが人の声は全くしない。気配もない。ロイは捜索隊がきっと探してくれるといったが、そんな兆しは全くない。
本当に来るのだろうか。
本当に帰れるのだろうか。
何も見えないエドワードの脳裏に、弟の姿が浮かんでは消えた。にいさん、とやわらかに笑うアルフォンスの顔は無論鎧の姿ではない。生身の弟だ。
弱気になっている場合ではない。エドワードはきっとあの弟を元に戻してやらなければならないのだ。こんなところで、感傷的になっていてどうする。
「……たいさ、」
だが不安は一度自覚すれば落ちない染みのように心に広がっていく。夜が広がるようにじわりじわりと、しかし確実に。
見えるようになるとロイは言った。すぐに連れて帰って医者に見せてくれると。だが、そのロイさえ戻らない。
「…すぐ戻るって言ったじゃんか」
戻らない。
誰も戻ってこない。
父親も、母親も、アルフォンスも、
ロイも
がば、とエドワードは顔を上げた。そのまま勢いで立ち上がり、けれど草に足を取られてどさりと倒れた。それでも肘を突いて、彼は顔を上げた。もう駄目だった。とても耐えられなかった。彼はかきむしるように包帯を取り、けれどそれはきちんとは取れなくて、ぐずぐずに乱れただけだった。だがエドワードは構わない。そして開いた目に痛み、思わず瞑って、もう一度。今度はもっと大きな声で。
「大佐! …どこだよ、大佐!」
ぐしゃ、と土ごと手元の草を掴む。
こわい。
ひとりはこわい。
誰も帰ってこないのは怖い。つらい。悲しい。さみしい。
「大佐ぁ…!」
とうとうエドワードは地に顔を伏せた。
さっきから鳥の声ばかり聞こえる。鼻先まで溢れるのはむっとするような草の匂いだけ。今ここにほしいのはそんなものではないのだ。そんなものがいくらあったとて、自分は満たされはしないのだ。
涙は出てこなかった。だが、心臓が掴まれたように痛かった。
…そうしてどれくらい経ったのだろう。
確かに、草を踏みしめる音が聞こえた。
「…大佐…?」
エドワードは顔の半分も上に持ち上げて、かすかに震える唇でその名を呼んだ。
「………」
「…大佐? …大佐じゃないのか…?」
確かに誰かの気配がエドワードのすぐ傍で立ち止まった。だが、いらえがない。少年の心がきゅっとすぼまっていく。再び不安が広がっていった。
「…え…?」
やがてその「誰か」はエドワードの手を取った。それは大きな硬い手で、間違いなく大人の男のものだった。きっとロイのものだとエドワードは思った。しかし、それにしてはこうまで無言なのも妙な話である。
段々エドワードの眉間に皺が寄っていく。
「大佐…、なぁ、大佐なんだろ? …なんで黙ってんだよ…」
声も震えていくが、本人はそんな事には欠片も気を払っていなかった。
これは誰か。ロイ以外の誰かであるはずがない、だが彼ならなぜ何も答えないのだろう。
「……なぁっ…、…なんか言え―――」
その時である。少年が上ずった声で訴えた、その時。
彼の手を捉えた大きな手が、何事かをその小さな掌に綴ったのは。
「…え…?」
I’m not colonel, I’m…
「…え…?」
誰かの気配。ロイと似ていると思ったけれど、違ったのか。目が見えないとそこまで違ってしまうのだろうか。
エドワードは己の現状に歯噛みしたくなった。
指の主は綴りを続けた。
「…アグニ…准尉?」
指の主がイエスと綴る。
―――彼の指の話はこんなものだった。
彼はアグニ准尉。なんでもロイの指示で控えていた別働隊の指揮官だったそうなのだが、崩落に巻き込まれて部隊とはぐれてしまったのだという。おまけに喉を痛めて今は声が出ないそうで…、だが、彼はロイのこともエドワードの事も知っているという。
確かに別働隊としてロイが手配していたのなら、先に廃坑を調査していたふたりのことも知っているだろう。なるほどとエドワードは納得した。
納得して落ち着いて、そうすると先ほど取り乱していた自分を見られていたのだろうかということに思い至り、消え入りたいような気持ちになった。
しかしアグニ准尉はそんなことには特に触れず、大佐はどこかへ行ったのか、と尋ねてきた。
指とエドワードの掌で行われる会話はたどたどしくて、ここまでの情報交換をするのにも恐ろしく時間がかかっている。
「大佐? …あのぼけ、どっかで溝にでもはまってんじゃねぇの?」
ふん、とエドワードは鼻を鳴らしてことさらにきつくこき下ろした。さきほどの不安を思い出し、…不安がる自分をまざまざと思い出し、いたたまれなくなったのだ。
「…アグニ准尉、捜索隊はすぐに来ると思うか?」
この質問には「自分にはわかりかねる」といったような返事。まあ無理もなかろうと思う。
「…大佐な。…すぐ帰ってくるって言ったんだけど。…どこまで行ってんだ、…あの無能」
拗ねたような物言いになったことにも気付かず、エドワードは今は見えない目を周囲にめぐらせた。
[?]
黒い髪と黒い目をした一見青年然とした若い男は、釜に薪をくべながら、古ぼけた絨毯の上でぽつねんとしている金髪の子供をじっと見つめている。
その纏う服は青。肩には三本の線と三つの星。
「…准尉?」
沈黙が気詰まりになったのか、子供―――エドワードがぽつりと口にした。
男は動かず、ただじぃっとエドワードを見ている。ぱちりぱちりと火が爆ぜる音がしている。
「……なぁ准尉、…いないのかよ…」
―――いないとも
不安げな声を出してあたりを見えない目で探るエドワードに、男は内心で答える。
そう。初めから「アグニ准尉」などいはしない。
エドワードの傍にいるのは、最初からずっとロイ・マスタング大佐だったのだ。
「……どっか…行ったのかよ…」
とうとうエドワードは耐え切れなくなったのか、恐る恐るといった態で、膝立ちになってわずか前に進もうとする。
ようやっと、「ロイは」立ち上がった。
「…准尉…?」
彼は無言のままエドワードの傍に膝をつき、そっとその手を拾った。そして、掌を上向かせ、ここにいると綴った。
「……、…早く来いよな、…あんたもとろくせぇの」
ほっとした顔を隠す術もなく(恐らく気付いてもいないのだろうが)、エドワードは口を尖らせた。それには従順に申し訳ありませんと返す。
今は彼が上官なのだ。
そう、いもしない「アグニ准尉」の。
「…。…なぁ、…大佐、まだ帰ってこないのか?」
時刻の経過はわからずとも、肌を取り巻く空気が冷えてきた事、鳴く鳥の種類から、エドワードは敏感に夜の訪れを察していた。
(「すぐ戻る」って言ったのに)
白い面が翳る。
思ったよりもずっと素直に心情を表に出す少年に、ロイは目を細める。だが声は出さない。
「……、そっか。…まだ戻らないのか…」