箱庭
力ない声にエドワードこそが驚いてしまう。ロイが帰らないことがどうしてこんなに不安なのかわからなかった。確かに彼が今自分の命運を握っていることに違いはないが、そういう意味でこんなに不安になるわけではないことくらい、エドワードにもわかっていた。
だが。ではなぜなのか?
「…そっか…」
エドワードはもう一度呟いた。そして、両手を前に出し、何かを探す表情でさまよわせる。すぐに男は心得て、その手を捕まえた。それにはほっとした気配。
「…准尉。…オレ…、…や、やっぱ何でもない。…オレちょっと寝ていいかな。…大佐来たら起こしてくれるか?」
今度は、男は、掌ではなく手首を捕まえた。その事にエドワードは眉をひそめるが、手首ごと捕まえた男が少年の指を遣ってスペルを綴らせることで意図を覚った。
掌に書くより伝わり易いと思ったのかもしれない。
「…ん。…わりぃ、さんきゅな」
はにかむように笑って、エドワードは己の手首を抜き取った。
眠るエドワードに昨夜ふたりで包まった外套をかけてやりながら、ロイは黙ってその眠る横顔を見つめる。
「………」
どうしてあの時、こんな風に自分を偽ろうと思ったのか、…自分でもよくわからない。
だが、自分を求めてもがく少年を見ていたら、たまらない気持ちになった。それは確かだ。そして抱き起こして―――そうだ、それでもまだあの時ならまだ間に合った。
なのになぜ。違う他人を装ったのか―――
ロイにも、良く解らなかった。
そうして、夜半。
エドワードはまた、昨日のように目を覚ました。しかし今度は寒さを覚えてのことではない。半端に早い時間に眠りについたせいだ。
「……」
あたりに顔だけを巡らせる。
目の痛みはあまり感じなかった。もしかしたら、いつの間にか勝手に治ったのかもしれない。原因がよくわからないので、何ともいえなかったが。
エドワードはそっと目を見開いてみた。
ぐずぐずになってしまった包帯は、もう取ってしまってあった。
「………」
あたりは闇に満ちていた。
しかしその中で、ひとつだけ確かな赤い点。
目を凝らそうとすればわずかに痛みが走ったが、声を上げるほどでもない。エドワードは、しかとそちらを見据えた。
「……?」
釜、だろうか。そういえばロイは炭焼き小屋のようだと言っていた。
釜の火の番をしているのだろうその背中は、夜に沈み込んで暗くなってはいたが、その前にある火の照り返しで青である事がわかった。
青。…軍服の色だ。
そしてその青い背中の上には頭があり、その頭髪は黒い。髪の長さは、ちょうどロイと同じくらい。
…尉官ならば確かに軍服は青かろう。それはいい。だが、肩に見える影は星の形ではあるまいか。星といえば佐官だ。尉官なら、ただラインのみがあるはず。そしてこの暗がりではラインなど判別できるはずもない。だが星ならば。その形状が、何かが肩についているということくらいは少なくとも確認できる。
…エドワードの鼓動が早くなる。
これは、誰だ。
ロイか。では、先ほどまでいた准尉は。そもそもあの准尉は本当にそういう人間がいたのか。だがいなかったとして、―――なんなのだ。
少年の心が冷えていく。ひどく混乱していた。
「……准尉…?」
そして。…彼は、どちらの名を呼ぶべきかと思案した彼は、…その階級を口にしたのである。
やがてゆるりと振り向く影。
火を背負ったその人物は、
「………」
間違えるはずもない。ロイだった。
だが彼はまだ、エドワードの目が見えていることに気付いていない。
「…准尉? …いないのか…?」
エドワードは、…辛そうに瞬きした。そして目を閉じ、見えない時のように手を軽く前に出してさまよわせる。そうすれば人の立ち上がった気配があって、ほどなくして手を取られる。
「…准尉?」
ここにいます、と掌に落とされたメッセージに不意に泣きそうになった。
呼びかける声も震えていたかもしれない。
「…。………大佐は?」
答えなど、決まりきっていた。「まだ戻られません」と。
それはそうだろう。初めから、彼はどこにも行っていないのだから。
「………そうか……」
エドワードはぎゅっと目を瞑った。
どうして彼がそんなことをするのか考えもつかなかった。…彼にわかったのは、初めからふたりきりだったということだけだ。
「……。なぁ、准尉」
いらえはなくともエドワードは静かに語り続ける。何を語るつもりかは漫然としており、しかし口だけはしっかりと開いては言葉を紡ぎだすのだ。
何を語るつもりなのか、自分でも見当がつかない。
―――ロイがこんなことをする理由はわからない。しかし、初めに偽ったのが彼ならば。
今からエドワードが何を言ったとて、彼に少年を詰る義理はないはずだった。
「…あんたにこんなこと言ってもしょうがないんだろうけど…」
ロイはロイで、エドワードが何を言い出すつもりかと固唾を飲んで見守っている。彼は未だに、少年の目が見えていて、「准尉」の正体を見抜いていることに気付いていない。
「…。あんた今いくつ?オレ十五なんだけどさ」
ロイは幾分迷った末にエドワードの手を取って、綴った。二十九と。
「ふぅん。…オレの好きな人と同じ年だ」
静かにエドワードは言った。そして、まるで何もかも見えている顔でゆっくりと「ロイを」見上げた。
だがロイは混乱している。
もっと光源がある場所でなら、もしかしたら、エドワードの目がしっかりとこちらを捕らえている事に気付いたかもしれない。しかしあたりは闇が支配する夜だ。
おまけに、…彼とても動揺せずにいられなかったのだから。
「…どうかした?准尉。…それとも、軍の狗のオレが、誰かを好きなんておかしいと思うか?」
少年は静かにそう言った。上がりそうになる声を抑えながら、ロイは再びエドワードの手を取った。そしてその指を上から覆って動かす。
そんなことはありません、と。
「…。そ、か」
少年は淡く笑った。
「…。オレ、絶対本人には言うつもりないけど。…ずっと憧れてるんだ、その人に」
ぽつりぽつりと彼は言う。
「全然いい奴じゃないんだけど。…すぐ嫌味言うし、意地悪なんだ」
欠点をあげつらう割に、その声は随分と穏やかで。ロイは瞬きもせずじっとエドワードを見つめた。
「だらしなくてさ。性格悪くて、手癖も悪くて。多分。…でも、すごく強い」
エドワードはぱちりと瞬きした。口元には笑みが浮かんだが、目は泣きそうに潤んできていた。確かに彼は悲しかったのだ、その時。
ずっと目を背けていた気持ちを、掘り起こしてしまったから。
「あの人がいたからオレは今立ってられる。…それは間違いないんだ。…絶対言ってやる気はないけど。…きっと、オレが初めて好きになった人なんだ」
家族とは違う。友達とも違う。錬金術とも違う。
必要とか大事とか、そういう物ではなくて、なのに忘れる事が出来ない強烈な存在感。忘れられない焔。
そう、ちょうど今、この暗闇の中にひとつ燈る火のように。彼はそういう人だった。多分、憎まれ口を叩きながらずっと憧れていた。
―――まるで恋するように、ずっと。ひそやかに。