箱庭
「…准尉はさ。…そういうの、いるの?好きな人」
エドワードは表情を緩め、今度はそう問いかけてきた。
「…大人だから、オレみたいにただ、憧れてるとか…そんなじゃないんだろ?もしかして結婚とかしてるの?」
ロイは、…ロイも、また迷った。どういう態度を取るべきかと。
だが結局は、この暗い夜に何もかもを預ける気になってしまう。
「…准尉?」
男は、慎重にエドワードの手を取った。そしてやはり上からその小さな手を覆うと、そのまま動かし始める。少年の指を。
私も片思いです
何と綴るか迷った末、ロイはそう答えていた。エドワードの顔がわずかに歪む。
「…どんな人?」
そして静かな声で再びの問いかけ。ロイはまた、ゆっくりと綴り出す。
「…意地っ張りで? …強情で、頑固…? なにそれ、なんかすごい短気な人なんだ?」
エドワードは笑いながらその相手を想像する。どんなに気が強い女性なんだろう、と。
「…?でも毅然としていて?ふぅん…」
指の言葉をなぞらえるエドワードをじっと見詰めながら、ロイは心の中で彼のことだけを考える。
(誇り高くて、真摯で、情が深く、憐憫の情を持っていて、けれど素直でなくて、感謝されるのは苦手で、責任感が強くて、…愚かで、弱くて、それなのに誰よりも強くて)
ロイは目を閉じた。意識しなくても脳裏に彼の姿を思い描くのは簡単な事だった。最初に会った時の何もかもに絶望した姿も、その後の奮起した姿も。理不尽に怒る姿も、弱いものを慈しむ姿も、自分が知る限りの彼の姿なら容易に思い起こせた。
(…鋼の。…私の)
「…准尉?」
動きの止まった男に、訝しげにかけられる声。それにはっとして、ロイは続けた。
「…ふぅん、年下なのか…。…だから遠慮してるのか?」
エドワードが小首を傾げるのを、ロイはそっと笑って見ていた。遠慮というのとは違う。資格がないと思うからだ。
自分には彼を妨げる資格などない。小さくて、けれど誰よりも毅然と前を見据えている彼が行く道を、ただ見守っていられればそれでいい。それだけで充分なほどなのだ。だから遠慮とは違った。少なくともロイはそう思っている。
…大体にして、こんな事態にでも陥らなければ、自分もきっと彼への気持ちなどはっきりとは自覚しなかったに違いない。
だがそうだとすればこれは嵐の夜、切れそうな吊橋、そういうケース。つまりはまやかしかもしれないのだ。危機をともにしたふたりが互いに惹かれあうという、そういうまやかしなのかもしれないではないか。
だからやはりロイは偽るしかない。
だが、まやかしのような気持ちで少年を傷つけたくないと思ったことこそ、彼が真実心からエドワードを想っていたことの証になるとは、ロイは気付いていなかった。
「…。オレが思うにさ…相手はあんまり、年の事は気にしてないんじゃないかな…」
またも散漫になりかけていたロイの意識を、エドワードの声が引き戻した。
「…というか、オレを例にすると…相手の方が気にしてるかもよ」
彼は唇をゆがめ、もう一度繰り返した。
「…むしろ、相手の方が気にしてるかも。埋まらないからさ、年の差なんて…絶対に」
ロイは―――目を閉じた。
…さっきから自分は、自分達は何という茶番を続けているのだろう、と思った。
エドワードが言っているのは、自惚れではない、きっと自分の事だ。
そして自分は、その当の相手に恋心を語っている。まったく滑稽だ。
嘘なんて、つかなければよかった。
いっそ本当に口が聞けなくなればいいとさえ思う。本当のことが、本当の気持ちが言えない口なら、なくなっても大した問題ではないだろう。
…彼は未だ気付かない。
そうやって己を責めるロイを見つめるエドワードが、既にロイをロイだと知って、それでもその茶番に付き合っていたことを。だからこそそれに寄せて見つけてしまった気持ちを語った事に。
そして、それでも正体を明かさなかったロイに絶望に似た気持ちを抱いていた事にも。
(…これなら目なんか見えないままでよかった)
呟きは声を伴わず、だからこそロイに見咎められる事もなかった。
そうして二日目の晩はどちらもまんじりともしないままに更けていった。
次の日は少しだけ雲が出ていた。気温も前の日よりわずかに低くて、朝方の冷え込みは比べ物にならないものだった。
「……」
エドワードが不意に目覚めた時、彼は外套に包まれた上に誰かの腕にしっかりと抱きとめられていた。
昨日は腕に抱かれた上で外套に包まれていたのに。
唐突に彼は胸が苦しくなる。
「……」
そろりと顔を動かせば、―――彼を抱き留めて寝ているロイは珍しい事に熟睡しているらしい。彼がこんな風に意識を落す事はきっと稀だろう。勿論、今ここで何かがあればきっと目を覚ますのだろうけれど。
エドワードは声に出さず、そっと囁く。唇は「大佐」と動いた。
捜索隊なんて来なくてもいい、そう思った。
目を開いていてはロイに気付かれるかもしれない。それに、完全に痛みが引いたわけでもない。だからエドワードは目を閉ざしていた。
痛みますか、少年の手を取った男は、指でそう綴った。
エドワードはやや考えた後、すこし、と答える。すると彼は心得たもので、水を持って少年の前に膝をつく。
失礼します、と律儀にも綴って。それから、そっと濡らした布でエドワードの目の周りを拭う。まるで従者が主人にするような丁寧な態度だった。
少しあたりを見てきます、と綴った後、「准尉」は出て行った。
ひとり残され、エドワードは考える。考えたくはなかったが、他にする事がなかった。
「……何考えてんだよ」
何度か目を開いて盗み見たロイの顔には、…からかいなど微塵もなかった。ただ深い想いだけがちらついていた。
だが、ではなぜ。こんな事をするのか。
エドワードにはわからなかった。
彼が綴った片恋だという言葉を、信じてはいなかった。勿論その年下の相手が誰かなど、考えもせず。
ロイは、エドワードを残してきた小屋を一度振り返った。
…今は苦い後悔だけが胸にある。しかし、時が経てばこれでよかったのだと思う時が来る、彼はそうも思っていた。
勢いで君が好きだと告げたとして―――そこに何があるというだろう。それなら、こうやって紛らわせてよかったときっと思うはずなのだ。ずっとずっと時が経った後でなら、今回の事もきっと笑って話せるはずだから。
だから、今は心の声に耳を傾けてはいけない。
たとえ彼が自分と同じ気持ちを抱いていたとしても、それを互いに交し合っては、いけない。
「…っ」
一度だけ彼は唇を噛んだ。
昨日探った山道に目印を立てながら、いくらなんでも今日は捜索隊も来るだろう、とロイは考える。むしろ来なかったらどうしてくれようか。
「減棒かな、降格かな」
ふむ、と彼は顎をつまんで考える。いずれにせよ、部下にとってはたまったものではない話だ。
…と、まさかそれを察したわけでもあるまいが、人の声らしきものが聞こえる気がした。
「…?きたか?」
それは山の広範囲から広がっていると思われ、段々とロイ達のいる集落の跡まで輪を狭めてきているようだった。