『さよなら』と呟いた
この『楽園(世界)』など、壊れてしまえと望んでしまうくらいに、あの存在に傾倒していた。
けれど、そんな自分は触れる勇気すら持てなくて。
戯れで抱き締めることも出来ないまま。
このまま指の間を零れ落ちていく砂の様な、そんな別れなど望む筈も無い。
「ッ……コッチか?」
まるで見えぬ糸に導かれる様にアルヴィンは上を目指した。
聖衣の裾を翻し、長い階段を駆け上がる。
この先にジュードが居る。
だって聞こえるのだ、あの子の声が。
自分の名を呼ぶ声が……。
階段を上りきり最上階へ。
月の女神の加護が柔らかく降り注いでいた。
その光を無意識のまま忌々しそうに眺め、アルヴィンは足を進めた。
人気のない牢獄。
否、たった一人だけを閉じ込めた檻。
その部屋の中央で立ち尽くしているジュードの姿を見つけた。
「ッ…ジュード!!」
叫ぶ。
その名を。
これまで閉じ込めていた愛しさや執着を解き放つように……。
声が聞こえた。
今一番聞きたくて、聞きたくなかった声が。
涙に濡れた双眸のままジュードは恐る恐る振り返る。
月明かりの差し込む牢獄の通路に、荒い呼気を繰り返してこちらを見つめる緋褪色の双眸と視線が重なった。
「ア…ルヴィン…ッ」
どうして、と。
どうして来てしまったの、と震える手で自分の聖衣を掴んだ。
「ジュードッ」
ガツンッとアルヴィンは特殊な強度が成された格子に掴みかかった。
「ッ…ジュード!」
「アルヴィン……ッ」
込み上げてくる想い。
気付かれることなく持っていこうとした感情がザワリと波立つ。
近付きかけて、けれどジュードはその足を躊躇った。
徐々にこの身を蝕む『闇』がその速度を上げたのが分かった。
ギシリと身が、骨が軋む様な痛み。
この身が完全に堕ちてしまのが先か、それともジュードの身の変化に気付いた『正義』がここに訪れるのが先か。
どちらにしても待ち受けるのはアルヴィンとの『別離』。
あぁ、でも……だからこそ、最期に触れたいと思った。
その温もりを知らぬまま別れたくないと、そう思ってしまった。
「ッ……」
一歩、また一歩。
ゆっくりと足を踏み出す。
その度に走る激痛がジュードの身を蝕む。
それでも、ジュードは笑みを浮かべていた。
涙に濡れた双眸はもう誤魔化しきれない。
「来ちゃったんだ……」
アルヴィンが掴むすぐ隣の格子をそっと握り、困った様に笑った。
「……処刑、だって」
「ッ」
そして目を伏せる。
何を言おう、何て告げよう。
言葉が出てこない。
「だけどッ……なんでお前が……ッ」
そう漏らすアルヴィンにジュードの心が決まった。
格子を掴んでいた手を伸ばす。
「アルヴィン……」
胸元の聖衣を掴んで、引き寄せた。
声が聞けるはずがない、会えるはずがないと思っていた人に最後に会えた。
もうそれだけで満足だと思ったのに。
引き寄せ、軽く、触れるだけのキスをした。
触れた温もり。
コレが最初で最後だと刻み付ける。
「ッ」
「好きに、なってしまったから……」
好きだったのだと気付いた、気付かれてしまった。
だから、と掴み引き寄せていたアルヴィンの胸を強く、強く突き放した。
「ありがとう、君に会えて、本当に良かった……」
「ッ……」
離れた距離を再び詰めて、アルヴィンが手を伸ばす。
あぁこの手に触れて、あの腕に抱きしめて貰いたかった、と込み上げる欲求を抱きながら願う。
そんな顔をしないで、と。
これは貴方の所為ではないのだから。
悲しまないで
(でも忘れないで)
僕の事は忘れていいよ
(時々は思い出して)
『僕』という存在が居た事を
願いと想いと二つの心が胸を締め付ける。
「アルヴィン……」
君の事が本当に、ほんとうに好きでした。
――――『さよなら』。
最期の別れの言葉。
音にせず、ジュードはそっと微笑んだ。
そしてその意識が深い闇に飲み込まれていった。
黒く染まった羽だけを残して。
『愛』を司っていた大天使はたった一人に愛を捧げて、魔界へと堕ちていった。
「……ッ、……!!」
必死に、必死に叫ぼうと、呼ぼうとした声が喉で詰まる。
伸ばした手が届かない。
触れる寸前にジュードは消えてしまった。
アルヴィンの目の前で。
『堕ちて』しまった。
優しい笑みを浮かべたまま。
アルヴィンの『好き』だった笑みを浮かべたままジュードが居なくなってしまった。
「ッ…ぁ……ッ」
引き寄せられて、触れ合った唇。
この唇に残る温もりだけが空しく残っている。
どうしてこうなってしまったのだろう。
こうなる前に触れられたら良かった。
いっその事抱き締めてしまえばよかった。
いつも、伸ばしかけた手は躊躇ったまま宙を切って。
誤魔化す様に自身の髪を撫でつけていた。
その度に綺麗な琥珀の双眸がこちらを見上げて、そして笑った。
どうしたの、と此方を気遣う優しい笑み。
その笑みも今はもう何処にも居ない。
アルヴィンの目の前で消えてしまった。
『さよなら』と別れの言葉を残して。
「ジュード……ッ……ッ」
誰か……誰か嘘だと言ってくれないか。
『一足、遅かったか……』
打ちひしがれ、蹲るアルヴィンの背後から聞こえてきた声。
甲冑の重なり合う音。
『正義』を司る大天使。
『滑稽だと思わぬか?『愛』を司る大天使が愛に溺れて堕ちるとはな』
「ッ……さい………」
『まぁ元より闇の色をその身に宿して生まれ出た存在』
「……るさい………ッ」
『そんな存在が大天使に名を連ねた事すら間違いであったのだ。まったく天界の名を穢すとは、汚らわ――――』
「――――うるせぇッ!!!!!」
怒声と銃声が同時に牢獄に響き渡る。
振り向きざま討ち放った神の祝福を受けた弾丸は炎を纏って『正義』へと向かう。
それを後退することで交わすが、追撃とばかりに愛剣を手にアルヴィンが斬りかかる。
「テメェが…ッ、アイツを…ッ、ジュードをどうこう言うんじゃねぇ!!」
『くく……大天使の団長である貴公が、何を怒る?』
「答える義理はねぇよッ」
『……あぁ、ナルホド成程』
呵呵と笑いたした『正義』は甲冑に包まれた手でアルヴィンを指差した。
『貴公『も』ということか』
「………」
ブワリとアルヴィンの周囲から黒く染まった羽がハラハラと落ち始める。
『これはッ、更に滑稽!!大天使の、神の代行とまで謳われる貴公が……くくく、カカカ…ッ』
「……ッ」
『……堕ちるか?貴様も?』
アルヴィンは大剣の柄をキツク握り締めて、フッ…と嗤った。
「『堕ちる』?」
何を今更。
もう既にこの身は闇に侵されている。
それでもまだ此処に居れたのは繋ぎとめていた存在があったから。
まだ、と……もう少し、と共にありたい存在が居たから……。
けれど、それも……――――。
「アイツが居ないこの世界になんて必要無い。こんな……『あの野郎』の玩具箱のような世界になんて……」
だから、と。
アルヴィンは口端を歪めて『正義』を睥睨した。
作品名:『さよなら』と呟いた 作家名:蒼稀