太陽と月と星(後)
今は、キャンプを張ったテントの中である。
「アエルゴのことは、どのくらいご存知ですか」
「…そうだな。…あまり自信は無い、としか言えない」
苦笑してそう答えれば、男は幾分思案げに黙り込んだ後、こんな話を始めた。
「…正直に申しまして、アエルゴの人間の大部分はアメストリスに対して良い感情をもっていません」
これは通訳として何度か行き来した経験からの感想ですが、と彼は付け足した。
「まあ、そうだろうな」
逆の立場になって考えればその通りだろう、とロイは頷いてみせた。
「今のアメストリスの状態であれば、早期に侵攻し、征服してしまえ―――というのが、国内最大派閥の意見です」
「…まあ、…そうだろうな」
「しかし、ここにひとつ、忘れてはいけない歴史があります」
「…歴史?」
はい、と重々しく通訳は頷いた。
「アエルゴにはいくつかの民族…というより部族と言った方がよいでしょうか、とにかく、いくつかの民族がおります。これはアメストリスもそうでしょうが、アエルゴの場合、もう少し入り組んでいて、各民族の指導者それぞれにある程度の発言力があります」
「…ほう?」
そこで通訳は、小さく笑った。
「今でもアエルゴでは商人が強いのですが、それはもともと、各々の部族が隊商を組んで西に東に散っていた名残なのかもしれません」
ロイは興が乗ってきた顔で腕組みをした後、立ったままの通訳に向かいの椅子を示した。ありがとうございます、と礼を述べて腰をおろした通訳に、ロイは続きを促した。
「…実は、私の祖父もまた、そうした部族の長でした。…が、一族はある時他の部族の襲撃に遭い、滅びました。祖父は命からがらアメストリスへ逃げてきたのです」
「…そうだったのか」
「…今のアエルゴは利益で繋がっている。結局アメストリスを版図に加えたいのも、過去の確執もあるでしょうが…、大きな意味では商業圏の拡大が狙いでしょう…」
そこまで聞いて、ロイは愉快そうに笑い出した。
「…閣下?」
「なるほど、よくわかった」
彼は面白そうに目を細め、リラックスした姿勢で通訳を真っ直ぐに見た。
真っ直ぐに。逸らすことなく。
「ただの通訳にしては雰囲気が違うと思っていた。だが、自分で通訳をあまり知らないから、気のせいかとも思っていたんだ。…だが、勘は当たったか」
喉奥でくつくつと笑う若い男は、確かにその位に見合うだけの何かを持っているのだろう。通訳はそう思いながら、若き将軍を見返した。そんな通訳に、その位階にしてはまだ大分若い男はゆっくりと問いかける。
「―――それで、あなたの思惑は」
「は…」
「私に荷担して、何かさせたいことが?」
腕組みし、足を組んで問い掛ける男には妙な愛嬌があって、通訳は、正直にこの少将閣下に魅力を感じている自分をあらためて知る。確かにある程度の思惑はあった。だが今この話をするのは、セントラルを出発してからのこの半年余りで彼に心酔してしまったからだった。
「…信じていただけないかもしれません、ですが……、いえ、正直に申し上げましょう。確かに私には初め、祖父を追ったアエルゴに一矢を報いたい気持ちがありました。…ですが、今は違います。閣下のために働きたいのです」
「それは…」
ロイは何となく意外そうに目を見開いた後、人懐こい顔をして笑った。童顔の彼だけに、そんな顔をすると本当に親しみを感じさせる。
「ありがとう」
「…!い、いえ…もったいない」
衒いのない子供のような物言いに、通訳は一瞬言葉をなくしていた。
「…閣下、アエルゴは一枚岩ではありません。ですから余計に敵が必要なのです」
確執だけが原因ではないと、通訳は改めて口にした。なるほどとロイは再び頷く。
「―――閣下。今の最大派閥と敵対している派閥の長に、お会いください」
「…二大勢力の片方か。確か……、ムスタファ・ケマル?」
言いづらそうに発音したロイに、通訳は軽く驚いたように目を瞠った後、生徒の上達を褒める教師のような顔を見せた。
「ご立派です、閣下。よくご存知で」
「…そう褒めてくれるな。…私は軍人だからな…政治の駆け引きはそこまで得意ではない。学ばなければ何も判らないさ」
肩をすくめて苦笑するロイに、通訳の熱意も高まる。何としてでも、この若い将軍を救国の英雄として生還させたい。その思いが、高まった。
「現在アエルゴの指導者と呼ぶべき位置にいるのは、イブン・イスマイルという老人です。確かに彼はよく国をまとめているが、…年をとりすぎた。彼に対外政策を翻意させることは難しいでしょう。しかし、ムスタファなら、あるいは…」
「…。確か、私が一番最後に確認した情報では」
ロイは真面目な顔になって、通訳に静かに問う。通訳は、その視線を受け止める。
「ムスタファ・ケマルは、投獄されたと」
ゆっくりと頷く通訳の瞳に本気を感じ取り、ロイは一時口を閉ざした。それから、おもむろに再び口を開く。
「…大きな賭けだな?」
はい、と通訳は頷いた。いや。軍に属さない、ロイの信奉者は。
「閣下なら、やり遂せるでしょう」
ふ、とロイは笑った。
「……なるほど。…確かに舞台として不足はないな」
簡単に言ってくれる、と思わないでもなかったが、ロイもここまで来たら覚悟は決まっていた。
「―――イブン・イスマイルからの返事が来る前に、ムスタファ・ケマルが収監された刑務所を調べておくよう、…頼んだぞ、少佐」
最後だけ調子を変えて、ロイはテントの外に呼びかけた。
そのことで、通訳ははっと我に返る。…まったく気がついていなかったが、あの美人の副官殿は近くにいたのか。その信頼関係に、通訳は息を飲む。
そして、ふと思い出したのである。ロイが、クレタでコルネーリアに語ったことを。
「…閣下、…お国に大事な方を残されてきたというのは本当で…?」
あの少佐がいて、他にそんな女性がいるというのだろうかと、通訳は不意に疑問に思ったのだが…。
ロイは、初めて芯から驚いたような顔をして…、それから、困ったように、照れたように笑って、ああ、と小さく答えた。
その妙に初々しい様子に、通訳がさらにロイに惚れ込んだというのは言うまでもないことだった。
ムスタファ・ケマルは、元々アエルゴ国防軍の一兵士だったのだという。前線の兵士だった彼は、アメストリスとも当然何度となく戦っている。兵士として、指揮官として。そうであれば、ロイがたとえば協力を申し出たとして、そのまま信用されるかどうか、…それは大分難しいだろう。
しかし、過去の因縁だけに縛られる人物ではないように、多少は希望的観測を含むが、ロイはそのように思っていた。
それは彼が、単なる兵士から、ある程度の派閥を率いる政治家へ転身した経緯に由来があった。
彼がそもそも人の上に立ったのは、幾度となく続く戦闘に疲弊した兵士のためだったと言われている。
彼が部隊を率いて蜂起した時、それに呼応するように国内でいくつかの部隊、部族がやはり蜂起し、それが当時のアエルゴを相当に揺さぶった結果、今のような国家形態へ変わったらしい。要するに、議会を頂く共和制だが。その前までは、首長という存在があって、複数の民族をまとめていたそうだ。