太陽と月と星(後)
苦笑したエドワードにシェスカは首を傾げたが、それ以上を尋ねることはなかった。
フランチェスカも他の女性達も、さすがに衣服に若干の乱れはあったが、どこにも怪我はしておらず、むしろ生き生きとさえして見えた。
「…あの、…その、」
何と声をかけてよいものかわからず口ごもったエドワードの後ろから、司書長、本来の意義としての館長を務めるはずの女性が口を開いた。
「ありがとう、皆さん」
その声はゆるぎないものだった。堂々とした、誇りに満ちた声だった。そう、彼女はそれだけ、司書という己の職分に対して誇りを持っているのだろう。
「おかげで、この国の宝が守られました」
「司書長…」
驚いて振り向いたエドワードに、貫禄ある女性は茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせてから、微笑んだ。
「過去から積み重ねられた知識は人の宝です。これを次代の人へ伝えていくのが、私達の仕事です。ですから、ここを権力を持つ人が治めるのは本来であれば好ましくない」
「仰る通りと存じます。司書長」
フランチェスカが、微笑を浮かべて頷いた。
「ありがとう。館長。…エトワール」
司書長は、エドワードに仮の名で呼びかけた。まだその場には、一般人もいたゆえであろうが、もしかしたら違うのかもしれない。
「…vous etes notre etoile」
「…え…?」
小さく呟かれた言葉は、異国の言葉のようだった。耳慣れないアクセントだったので、エドワードは怪訝そうに首を傾げる。しかしフランチェスカには意味がわかったらしく、司書長に頷いて返していた。
もしもその意味を、エドワードがわかっていたなら、司書長が一般人の目を気にしてエトワールと呼びかけたわけではない、と気付いたかもしれないが、それは仮定のまま終わった。
「…あなたには私達皆が期待しているわ。ここを、これからもよろしくね」
肩を叩いた司書長の言わんとするところは、ただ単純に、司書としての「エトワール」に期待しての言葉ではなかっただろう。それは、エドワードにもなんとなく伝わった。
恐らく、この国とか、もう少し大きな意味での言葉だ。だが、ロイならともかく、エドワード個人にそんな大それたことが出来るのだろうか、とも思ったが…、そこには触れないで、はい、と返して彼女は頷いた。そうすれば司書長も嬉しそうに頷いてくれた。
アメストリスでも南部は大分暑いのだが、アエルゴはその先に位置する国である。暑さは言うまでもなく、慣れない者には過ごしにくい気候だった。
「…軍服に夏服を、と南部の軍人が言う気持ちがわかる気がするな」
襟を寛げながら言う上司に、それでも涼しい顔をしているように見える副官が、ええ、と頷いた。
確かに、暑い。
アメストリス東南部に広がる砂漠はアエルゴにとっても東北に位置していることになる。アエルゴの東北部の国境警備隊は、皆、日よけのついたフードつきのポンチョをかぶり、濃い色の眼鏡をしていた。
「閣下は暑いところは初めてなのですか?」
ふと、随行の通訳が何気なく尋ねてきた。この質問に、リザの眉がほんの少し動き、ロイの過去をいくらかは知っている護衛官がさっと顔色を変えた。
…初めてなわけが無いではないか。
彼の初戦がどこであったか、ある程度年の行った、今軍に残っている人間には知らない者の方が少ない。その評価を聞く時に、好意とともに語られたか悪意とともに吹き込まれたかくらいの差異はあったとしても。
本人がそれをどう思っているかはよくわからないが、…そんなに楽しい思い出ではないだろう。
だが、通訳はそれを知らなかったのだろう。確かに、ロイは経歴として南方―――東南部に配属されたことはない。
「そうでもない」
何と答えるだろうか、と周囲の人間が思っている中、ロイは淡々と答えた。
「確かにここまで南に来たのは初めてかもしれないが、砂漠になら行ったことがある」
「砂漠ですか。暑いですよねぇ」
「行ったことが?」
「行ったというか、生まれが砂漠の近くでして」
通訳はそっと言った。ではイシュヴァールの…と少し思ったが、そういう経歴の者を通訳として派遣はしまい。
「私の祖父は元々アエルゴの人間でしてね。親父が五つか六つの頃に、アメストリスに来たんだと言ってましたが」
なるほど、とロイを始め使節の者は思った。言語に堪能ということで採用された彼だが、略歴には祖父の経歴などは記載しないので、初耳だった。
アエルゴの言語はクレタ同様、習得が困難なほどにアメストリスのそれと差異が激しいわけではないのだが、それでも誤解があっては困る。通訳は必要なのだ。
「それで、私が生まれた頃はちょうど、東部と南部の境近くの、砂漠のそばにおりましてね。…なんだか懐かしいような」
「そうか…」
「―――砂漠にはすべてがある」
不意に遠い目をした通訳が、小さくそう呟いた。
「ご存知ですか?」
「いや。初めて聞いた」
「…私も随分昔に聞いたので、誰から聞いたかは忘れてしまいましたが。…多分、どんなに水の無いところでも咲く花があり、生き物がいて、…生きていくには厳しい場所ですが、だからこそそこにはすべてがあると…」
そこまで語ってから、通訳は顔を上げ、はっとしたように目を見開いた。そして、照れくさそうに笑う。笑うと顔が皺だらけになって、人の良さそうな男だった。年の頃は三〇代後半といったところ。
「申し訳ありません、喋りすぎました」
「いや。かまわない。…面白い話だった」
ほんの少し目を和ませて、いい、と彼は首を振った。
「砂漠の日差しは、きつくて、暑いというよりは痛いという感じですが…それでも、無性に懐かしくなることがありますよ」
通訳の言葉を聞きながら、ロイは国境付近のまばらに草が生えた地面を黙って見た。南部と一口に言っても色々で、暑いが肥沃な土地もある。アエルゴが国として成り立っているのは、そういう土地があるからでもある。すべてが砂漠ではないのだ。水が豊富で、密林が広がっている場所だってあるのだ。
そんなことを理性的には考えつつ、内心で思い出していたのは、通訳が言うような砂漠の日差しだ。
懐かしくはまだ、思えそうもなかった。
その思い出の色は、まだ生々しく、赤い。
想像していたことではあるが、アエルゴにすんなり入国することは出来なかった。しかし、いきなり銃を乱射されなかっただけましだろう。彼らは一応、親書を受け取ってはくれたのだから。
アエルゴの言葉を母国語のように操る通訳の人柄も、いくらかは影響していたのかもしれない。彼が話し掛けると、国境警備の兵達の表情が明らかに親しげになったので、きっとそうなのだろう。何を話し掛けたのか、とロイが何気なく尋ねたところ、万国共通の話題を少し、と愉快そうな答えがあって、その後にこっそりと「お美しい副官殿のいないところでなら、お教えできるんですが」と付け加えられた。面白い男だとロイは思った。
「閣下」
その面白い男は、時折不意に話し掛けてくることがあった。軍内部であれば、俄かとはいえ将官に昇進した男にここまで気負わず話し掛ける者の方が少ないだろう。
「なんだ?」
鷹揚に首を傾げて、ロイは続きを促す。