太陽と月と星(後)
彼は膝を叩き、立ち上がった。
「通訳を呼んでおけ」
突入には当然参加しておらず、外で待機している通訳を呼んでこいと、ロイは直近にいた兵に命じた。挨拶と軽い会話程度なら何とかなるかもしれないが、通訳を通さないと出来ない話もある。それに彼は元々アエルゴの人間なのだというし、うってつけだ。
大股に歩いていくロイの勘に、その時ふと、何かが引っかかった。そしてそのまま、体をそらしていくらか身を伏せる。
…ドンッ
音が走ったのはそのすぐ後のことだった。はらり、と黒髪がわずか散って、鮮やかな赤が空中に一条の線を描いた。
「…閣下!」
慌てて駆け寄る兵士の耳に、ちょうど瓦礫の影からロイを狙撃したアエルゴの人間の呪詛に似た言葉が入ってきた。なんと言っているのかは判らなかったが、褒められているわけがないのだけは確かである。
「…あっ」
慌てたような声に続いたのは、ぱりん、という高い音。
「ご、ごめん…なんだろ、手が滑った」
エドワードは慌てて屈んで、落としてしまったコップの破片を拾おうとする。
「ちょっと、危ないわよ、待って…」
「…つっ」
「…だから言ったのに。ほら、箒で掃くから、離れて」
しょうがないわね、と苦笑するシーラに、エドワードは困ったように笑った。そして、硝子の破片で切ってしまった指先をちらりと舐める。
「……たいさ…?」
―――不意に、ロイに呼ばれたような気がしたのだ。それでぼうっとして、コップを肘で落としてしまった。
指先に滲む血に、わけもなく不安が掻き立てられた。
ひょろりと背の高い糸目の男が、どことなくきょろきょろしながら歩いていた。
「おお、ここだ」
彼は妙にじじむさい口調で呟くと、心なしか口元を綻ばせて呟いた。
彼の目の前に現れたのは中央図書館の大きな建物だった。
いつまで経っても上に積み上げられるばかりで底が見えない書類の山に、うんざりとした様子で丸い体で軍服をだらしなく着崩した(親しい人であれば、着崩しているのではなくきちんと着用すると窮屈になるからそうしているのだと知っているが)男が椅子にひっくり返る。
「俺ァもう今日はやらねえぞ…もうほんとにやらねえぞ…何も…!」
「まあまあ、ブレダ少尉。頑張りましょうよ」
そんな男を、向かい側から宥めたのは、眼鏡をかけた童顔の青年だ。
「僕等がこれを片付ければ、エドワードくんを休ませてあげられるじゃないですか」
ね、と笑えば、ブレダもうっと詰まる。
「…まあ、…大将にはこんなの、やらせたくねえよなあ」
はあ、と溜息ひとつ、ブレダはぐしゃぐしゃと自分の頭をかき回しつつ、言った。
―――アームストロングの尽力(というより脅し)の甲斐あって、エドワードは確かに、軍上層部からのしつこい呼び出しから解放された。が、その結果、中央に居残ることとなったブレダ少尉、フュリー曹長に、明らかに負荷を超えた細々した仕事が回されるようになったのである。八つ当たりだ、とブレダは思っているし、意外とやることがせこいな、とフュリーも思っている。
どれもこれも深刻な事件、案件ではない。しかし、どれもこれも気が滅入るような内容ばかりだった。
国家錬金術師は少佐格なのだから、と。
だから、人材不足の今、進んで軍内部の仕事に携わるべきである、と。
上層部は言う。しかしそれがこじつけであることなど火を見るより明らかだ。国家錬金術師は錬金術師という枠で資格認定を受けているのだから、たとえば中央司令部の下水配管だの、たとえば難民街での人身売買問題だの、そんなことをまだ二十歳にも満たないあの少女に何とかしろと言えるのかと。それがいい年をした大人のやることなのかと。
大体、難民街での出来事というのは立派に内政の範囲内だし、そんな物は上層部が何らかの対策を講じていくのが筋であろう。そのための権限なのだ。そして、その風紀を取り締まるのは、軍というよりは憲兵隊の仕事だろう。軍とはあくまで、外圧に対する国防を第一の目標として掲げる組織なのだ。
無論、それは内部での問題に係わらなくていいということでもないが。
「でしょう?」
「確かに。…あー、大将のやつ、元気にしてるかねえ」
ブレダ達は、エドワードが一時はアームストロングの屋敷に身を寄せていたこと、その後彼女だけが単身名を偽って中央図書館にいることを知っていた。だが、会いに行ったことはない。不用意につながりを見せるのは、エドワードの身を危うくさせることになるからだ。
「元気みたいですよ?」
「いやに自信あるじゃねえか」
ブレダは、一度瞬きしてからもう付き合いの長い青年に尋ねる。その根拠はと。
するとフュリーはおかしそうに笑って、いや、噂なんですが、と前置きして話し始めた。
「…最近中央図書館に、金髪の可愛い司書がいるんだそうですよ?」
「…金髪の…」
ブレダの瞬きにかぶさる、フュリーの笑い声。
「それが見た目と中身にギャップがある司書さんらしくて、騒いでるとたいへん怒られるんだそうです。しかも男みたいな口調でね」
ブレダの顔に、段々と面白そうな笑みが浮かんでくる。
「へぇ…」
「でも、すごく元気のいい人らしくて。…おかしいんですけど、本なんか雑誌だって読まないような連中が、図書館通いしてるんだそうですよ。最近じゃちょっとした名所みたいで」
おかしいでしょ、とフュリーが言うので、ブレダも腹を揺すって笑った。
「男みたいな喋り方ってのが、まさに、って感じだな」
「でしょう」
フュリーもおかしそうに笑う。
「…でも、まあ。明日にでもなれば、わかるんじゃないですか。ファルマン准尉は、嘘がつけないから」
「違いない。あいつは謹厳実直の鑑みたいな奴だからなぁ」
ははは、という笑い声が、二人だけで押し込められた狭い資料室の窓から流れた。
懐にしまった手紙を上着の上から確かめつつ、ファルマンは中央図書館の入口をくぐった。入口のそばには児童書コーナーがあり、図書館というよりはいささか託児所に近い雰囲気を見せていた。大きなラグが敷かれた上に子供や、子供連れの母親が座り、絵本を読んだりしている。たいそう和やかな風景だったが、以前の、軍の管制下に置かれていた頃の図書館からは想像がつかない光景でもあった。
「…ん? …!」
しかし目指す場所はそこではないと、ファルマンが視線を前に向けかけた、その時だった。ラグの上、ちょこんと座って、紙芝居を読んでいる少女然とした人に気付いたのは。
紙芝居の前には子供が数人集まって、目をきらきらさせて真剣に聞き入っているのだが、問題は、それを読んでいる人物にこそあった。
長さは記憶にあるのより短いが、金色の髪と、それと同じ色の瞳。前髪はサイドに分けてたらして、…何よりあの顔と、表情。やわらかさを増してはいるものの、やはりその勝気な表情は、ファルマンが知るある人物のそれに相違なかったのだ。
彼は呆然として、しばしその少女に見入ってしまった。
「…森の熊さんは、女の子にイヤリングを返してあげようと思って、慌てて女の子の後を追いかけました。すると…」
しゅ、という紙を入れ替える音。