太陽と月と星(後)
先を知っているのだろう、くすくすと体を揺らす子供、少女の膝にぺし、と小さな手を伸ばす子供。楽しそうに紙芝居を読む少女。
「…エドワードさん…」
ぽつりと呟き、ファルマンは細い目をさらに細めた。
そして、何も言わずにカウンターに向けてそっと歩き出したのであった。
カウンターで、ファルマンは、エレガンスアーム、と名乗った。これは、知る人ぞ知る、アームストロングが自ら定めた、まあ暗号のようなものである。だから、それを口にすることで、暗に、自分がアームストロングなりエドワードなりの身内だということを告げたわけだが、相手は微妙な眼の動きを見せた後、はい、と普通に返した。
「これを、エトワール嬢に預かっております。お渡しください」
「はい。確かに」
手紙を受け取ったシーラは、ごく自然な動きでそれをカウンターの下に下げた。そして問う。
「お会いになってはいかれませんか」
「…いえ、…自分はただの使いですから」
ちらり、とファルマンは入口近くの児童書コーナーを振り返る。その動きで、シーラも得心がいったらしい。
「お待ちになられるようでしたら、奥へお通ししますが…」
「いえ。本当に結構です。…よろしくお伝えください。こちらは皆、元気ですと」
「はい。かしこまりました」
「どうぞお体にお気をつけて、と…彼女の待ち人も、恐らくそう遠くないうちに帰ってらっしゃると思いますので」
この言葉に、シーラもさすがに目を瞠った。
マスタングが、帰ってくるのだろうか。そんな情報があるのだろうか。
それが本当なら、…彼女はどれだけ喜ぶだろうか。
柄にもなく洒落たことを口にしたせいか、ファルマンは微妙に照れていたが、…幸か不幸か、糸目と表情に乏しい顔のおかげで、それはシーラに知られずに済んだのだった。
「え?客?」
紙芝居朗読を終えたエドワードがカウンターに戻ると、シーラが「糸目のお客さんから預かったわ」と一通の白い手紙を差し出してきた。見た感じは薄そうだった。
「読んでみたら?」
「え?あ、うん」
かさかさと開くと、中からは二枚の白い便箋。
「…? …!」
中尉、と唇だけが、動いた。
それは、リザがエドワードに宛てた手紙だったのだ。
書かれたのは、一行がアエルゴに入る前の時点らしい。
クレタで交渉がうまく行った件について、リザなりの感想が付けられて述べられていた。「金髪だったから」というロイの台詞まで、はっきりと。
「…あの馬鹿」
照れくさいような微妙な感覚を味わいつつ、エドワードは簡潔なリザの手紙を読み進めた。これから向かうアエルゴが一番の難関だが、多分何とかなるだろう、というリザにしては楽観的な感想が、書き方はリザらしく淡々と書かれていた。
こちらは大丈夫だから、どうか安心して待っていてほしい、と締めくくられた手紙を、エドワードはぎゅうと抱きしめる。
「…そっか」
無事なのだ、と彼女は安堵に胸をなでおろした。
すぐにも出発しようとしたリザを止めたのは、ハボックだった。
「少佐も疲れがたまってるはずです。俺が先発しますから、少佐は一日休んでから出てください」
「そういうわけにはいかないわ」
難色を示すリザに、ハボックは苦笑して言ったものである。
「こっちだってそういうわけにはいきません。大佐…じゃなかった少将のお守りは少佐の専売特許でしょ?少佐には常に元気でいてもらわないと、俺達が困るんス」
「……。でも、あなただって…」
復帰して間もないのだろう、とリザの顔が曇る。するとハボックは屈託のない顔で笑った。
「何言ってるんですか。リハビリにはこれくらいがちょうどいいっしょ。だって、これからも少将の下についてたら、もっと荒っぽいのなんてザラでしょうしね」
「……少尉…」
リザは困ったように呟いた。
ハボックは、…辺りを窺い、他人の目のないことを確かめてから、きもち体を寄せて、ひそひそ声で返した。
「…でかい愛犬を一匹もらってくれませんか、って言ったでしょ」
リザはその言葉にぱちぱちと瞬きした後、呆気にとられた顔でハボックを見上げた。
…それは、出発前に、まだ病院にいたハボックに言われたことだった。深くは確かめなかったが、…まあそういう意味なのだろう。
「犬は主人のために戦うもんです。そうでしょ」
「…だから先に出ると?」
さあ、とハボックは肩をすくめ、また明るい調子で言った。
「でも、ほんとに休んだほうがいいと思いますよ。肌も荒れちゃったでしょ、この気候じゃ…」
リザは…予想外のところから来た攻撃に慌てて自分の頬に触れ、肌を確かめた。
「あれ?少佐…?」
そのまま無言で俯いてしまった上司に、まずかったかな、とハボックは口を押さえた。だがもう遅い。
「…迂闊なところは相変らずのようねハボック少尉」
どろどろとした空気と共に吐き出される声は低い。あ、やばい、と思った時には、ハボックは冷厳な目に睥睨されていた。
「では貴方に先鋒を命じます。至急砂漠を迂回しリンデン収容所に向かいなさい」
「え、あ、はい…」
「復唱は!」
びし、と命じられ、ハボックは思わず背を反らして敬礼した。
「ジャン・ハボック少尉、至急リンデンに向かいます!」
「よろしい。行ってよし」
「い、イエス・マム!」
ひぃ、と喉を引きつらせてハボックは声を張り上げたのだった。
―――倒れこんだロイの周りを取り囲む兵士と、狙撃した男を取り押さえる兵士とで狭い回廊は一時騒乱に飲み込まれる。
しかし、すぐにロイが片手を上げて存命を主張すると、その混乱は急速に鎮まっていった。
「閣下…!」
「…、大事無い」
ロイはぞんざいに言い、頬に走った小さな銃創を乱暴にこする。
「か、閣下」
「大丈夫だ。それより、所内の制圧を急げ」
「は、はい!」
頭を振って立ち上がり、ロイは指先に唾をつけて頬のかすり傷をなぞった。痛みという感覚はあまりない。ひりひりするような感じだ。そもそも、銃弾がかすったというよりも、風圧で切れたような気がしないこともない。当たっていたらこんなものではないだろう。
案内されてようやく対面かなったムスタファ・ケマル・ユースフは、一見すると小さな男だった。白くなった髪や小さな体からはまるで老人のように思えるが、その黒々とした目を見れば、まだ若いのではないかという気にもなる。
「…初めまして。ロイ・マスタングと申します」
通訳にならったアエルゴ式の礼を取りながら、彼は丁重に告げた。慣れないアエルゴの訛りをつけて。するとムスタファはじっとそんなロイを見上げた後、なぜかにっこりと笑ったのである。まるで好々爺の風情だったが、ただの人のいい老人であるわけがない。
「…初めまして、異国の青年」
朗々とした声には深みがあり、なるほど人の上に立つ人物なのだなと思わせるに充分な風格があった。身につけているのは粗末な麻の上下だが、そんなものに左右されない品格のようなものが。
「ご苦労なことだが、わしはもう古い人間だ。あんたの役には立つまい」