太陽と月と星(後)
身軽に、ムスタファは立ち上がった。立ち上がっても小柄なことにかわりはないが、だといって人に埋もれてしまうような風ではなかった。何か圧倒されるものがある。
「…それでも、わしを望むかね。アメストリスの青年」
一体いくつに見られているのだろうかと頭のどこかで思いつつ、ロイはしっかりとした声で答えた。
「あなたが必要です」
「…そうかい」
一瞬寂しそうに、男は呟いた。そしてわずかに目を伏せる。
「…そうかい、…」
そして、もう一度同じ言葉を繰り返した。
その後駆けつけてきた通訳を交えて、ロイは、アメストリスには侵攻の意思がないことを改めて強調し、伝えた。ムスタファは何も言わなかった。ただ、静かに聴いていた。かなうことなら和睦を結び、たとえば共同で国境地帯の灌漑、砂漠化対策などを進めていけたらとまで、語った。
夢のような話ではあるが、ロイはまだ若く、そして今現在、さまざまな戦功、貢献をぶら下げ、国のトップに近い場所にいる。もしも彼がその地位に就く、あるいは国権の発動に近い場所に座すというのなら、それはいくらか現実味を帯びた案になっていく。繰り返しになるが、彼はまだ若い。先が長いということは、人の入れ替わりによって計画が頓挫する可能性が低いことと同義であった。
「…アリーは私のかけがえのない友だった。…だが、…」
話の最後に、それまで黙っていたムスタファが小さく呟いた。アリーという聞きなれない名にロイが怪訝そうにしていると、イブン・イスマイルのことだと通訳に耳打ちされた。どうも、彼らの名は単純なファーストネームとファミリーネームで構成されるのではなく、独自の方式に則って命名されるらしい。
「…わかった。君達の提案を、受け入れよう」
ムスタファは重苦しい沈黙の後、静かに、静か過ぎるくらい静かに、そう答えた。
つまり、ロイ達の提案を受ける形で軍事力の提供を受け、アエルゴの首相となり、和平を結ぼうと。
正式にアエルゴとアメストリスの間に和平の場が設けられるのはもう少し先のことだったが、今この時こそが、その礎が作られた瞬間だった。
リンデンを制圧し、二日後。
ロイの予想よりも早く、アメストリスの軍―――東南連合連隊の尖兵がリンデンへ到着した。そこにいた男を見て、ロイもまた目を瞠った。
「…お久しぶりです」
にか、と笑う顔は記憶にあるのと違わない、少し貫禄がついたかもしれないが基本的にかわらない、懐こいもので。
ロイは呆然と指差しながら、目を瞠ってその名を呼んだ。
「…ハボック…?」
「はい。ハボック少尉、ただいま参りました」
御用は何なりと、などと洒落のめして言う飄々とした態度など、本当に以前とかわらない。それだけに、この部下の胆力を見る思いだった。
「…こき使ってやるから、覚悟しろ」
ロイもまた心から笑って、わざと以前のように横柄に言い放つ。だが顔が笑っているので、すこしも嫌味がなかった。
「何今更言ってんスか。慣れてますよ」
そんな上司に、…本来ならそんな気安い口調など許されないはずの官位であることなど気にもせず、ハボックも笑いながら返したのだった。
それから遅れること二日でホークアイが到着し、アエルゴ、いやムスタファの側でも、彼に従っていた一派がリンデンへと集まり始めていた。
ロイは、ムスタファの斜め後ろに立ち、あくまでも頭にいるのは彼であるということを強調した。無論そう思わない輩も多かろうが、それでも形は大事である。
ムスタファは自ら「首相」の宣言をし、イブン・イスマイルを追う形でアエルゴの主権を握ることとなる。儀援軍としてこれを補助したのはアメストリスから来たマスタング少将率いる一軍であり、そのことから、当初はムスタファに対する反発も少なくは無かった。ちなみに、イブン・イスマイル―――アリー・イブン・イスマイルは敗走中に自害したと報じられていた。
ただ、マスタング少将とムスタファの間に、ひとりの女性が立つことで、また話が微妙に変わってくる。
クレタの前大統領夫人、コルネーリア・ドロテアである。
彼女は国内だけでなく、特に戦場における負傷者の救済活動において、広く名を知られた人物でもある。国際戦争の場において、初めて中立という立場で医師、看護士を派遣した人物なのだ。正しくは、そのための組織、基金を設立した人物、であるが。
その彼女が、クレタ大統領の名代としてアエルゴに入り、ムスタファ、ロイと共に、国境を接する三国間における(のちにドラクマも加わりこれは四ヶ国となる)友好国条約が締結されたのは、ロイがアメストリスを出発して一年と少しが経った頃のことだった。
かつて偉大な首長が建てたという宮殿の一室にて、ロイは、二人の先達と顔を合わせていた。
ムスタファ・ケマル・ユースフとコルネーリア・ドロテアである。
彼らの協力がなければ、これほどに早く、またこれほどに平和裏に事をおさめることなど出来なかった。
「…あらためて、御礼を申し上げます。ご協力、深く感謝しております」
公用語とされるものは今の所無いので、ロイは自国の言葉で語り、それを各々についた通訳が伝えた。もっとも、コルネーリアにしてもムスタファにしても、アメストリスの言葉を知らぬわけでもないのだが。
「感謝はまだ早い。次は君の番だ、青年」
ムスタファは黒い目を細め、どこかからかうような光を放ちながらそう言う。
だが、確かにその通りではあった。後は、この条約をロイが命がけでアメストリス人民に遵守させる番であった。
だが、戦乱で命を落とすことに比べれば、それは容易いことだ。
彼の脳裏に、在りし日の親友とその家族の姿がふと浮かんだ。恐らくは、あれこそがロイの中で、平和という言葉を最も如実に示した絵なのだと思う。
「肝に銘じます」
「ふふ。よろしくね」
コルネーリアはころころと笑い、真面目に返した男にやさしげな目を向ける。
「そうそう。出来れば、もうひとつ約束をしてほしいのだけれど」
「…はい?」
ロイは怪訝そうに眉を顰め、なんだろうかといささか間の抜けた声を出した。すると…。
「私がしっかりしているうちに、あなたの大事な人と一緒に、もう一度クレタを訪れてほしいのだけれど」
「……………」
ふふ、と笑いながらの台詞に、言われた人間は絶句して固まった。
「おお、隅に置けんな、マスタング少将。ほうほう」
ムスタファもムスタファで、コルネーリアを煽るような発言をする。…そういえばふたりとも同年代で、…まあ行きていればロイの母親もこのくらいの年代だろうか、というところである。つまりは、ロイにとっては親にからかわれているような感覚に近い。
「名前は?年は?式は挙げたのか?」
「―――――――――」
ロイは二の句も継げずに、唖然として黙り込んでしまった。
「ね、お願いね」
「いいのぉ、それではうちにも来てもらおうか」
「あら。では新婚旅行でクレタからアエルゴを回って、その後は東へ行って大砂漠とクセルクセス遺跡でも見てきたらいいんじゃないかしら」
ぱん、と手を合わせてコルネーリアが言えば、ムスタファは笑い声を上げて「それはいい」と手を打った。