太陽と月と星(後)
とりあえず…気になることは色々あったが、汗を流したかったので、ロイは遠慮なく室内に設えられた(このあたりがもう、生活レベルの違いが如実に出ている感が拭えない)シャワーブースへと入る。
…と、上半身に身につけていたものを、すべて取り払った時だった。
かすかに、だが確かに、ノックの音が聞こえてきたのである。
「…?」
訝しく思い、そのままドアの方へと向かえば、確かに誰かの気配がドアの外にある。
「…誰だ?」
まさか、と思いながらも、ロイは声をかけた。
「…オレ」
「…。どうした?」
「…あの、…今、忙しい…?」
遠慮がちに尋ねてくるのは、かつての彼女らしくないなと何となく苦笑しながら、ロイは己の状態を見下ろした。
「…忙しくは無いんだが、…今お湯を使おうと思っていてね、…上は何も着てないんだが」
通すのはいいのだが、そんな格好でいるところにというのもあまりよろしくないだろう。…たとえ、ふたりが既に一線を越えた中であったとしてもだ。ここはアームストロングの屋敷で、ふたりは客人で、…それに、ロイは、一度抱いたからといってそういう遠慮や気遣いを飛ばしてしまうのも嫌だった。
しかし…。
「別に、いいよ、それくらい」
「…よくはないだろう」
ロイの顔は渋いものになる。だが。
「…話、…聞いてほしい」
消え入りそうな声で言われては、…抗えるものでもない。元々顔を見たくないわけではないのだ。先ほどの再会ではあまり言葉も交わせなかったし、それに、…ずっと逢いたかったのだから。
「…すぐ上に着るから、待っていてくれ」
ロイはがちゃりとドアを開き、エドワードを招じ入れるとそう言った。
ロイがシャツを引っ張り出している間、手持ち無沙汰気味に、エドワードは室内を見回していた。
客室の作りは皆同じかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
「…こっちの部屋は、青いんだ」
壁紙の色を見ながら、エドワードは言う。
「君の部屋は違うのか」
シャツを羽織ながらロイが問えば、うん、とエドワード。
「ライムグリーンとレモンイエローだよ」
「…色々な客間があるのだな」
金はあるところにはあるものだ、となんだか不思議な感慨に陥ってしまいそうだ。
「…待たせた。…どうした?座りなさい」
まだ立ったままでいるエドワードに、部屋の中央に設えられたソファを勧める。しかし、それでもエドワードは腰を下ろそうとしない。ロイは…、溜息をつき、本当にシャツを羽織っただけの格好で、一歩少女に近づく。
「…髪の毛。…切ったのかい」
そっと伸ばした手で、肩までの髪を揺らす。
「…最初に会った時くらいかな?」
「…たぶん。…でも、最初に…ロイと会った時と、違うの、ある…」
エドワードは瞬きもしないまま、右手を差し出した。その、白い指先を。ロイは、それを恭しく取って、その甲に口付けた。それから眩しげに目を細め、エドワード、と一度呼んだ。
「…成功、おめでとう」
「…。たいさ…ううん、ロイを、…驚かそうと思った」
驚いた?
と小首を傾げて問うのはどこかあどけなくて、ロイは小さく笑った。
「勿論。さっき見つけた時は、本当に驚いた…」
だが、人の目もあった。だから、その話は、親しい人間が揃ってから、と先送りにしたのだ。
エドワードの手をそっと引き寄せて、ロイは、自分の頬に当て、目を閉じた。少女は黙って、されるがままにしている。
「…あたたかい」
「…うん」
小さな答えは、笑っているようにも聞こえた。
「…よかった。本当に、よかった…」
万感のこもったロイの呟きに、エドワードは目を細める。そして、そっと手を取り返すと、「こっちもだよ」とロイの手を取り、一応は女物と知れるズボンの上から左足に触れさせた。
「…オレね」
泣き笑いのような顔ではにかんで、エドワードはゆっくりと言う。
「・・・オレ、ロイに話したいこと、いっぱいある」
「…うん」
ロイもまた目を細めて頷き、ごく自然な動作で、エドワードを腕に抱き寄せる。
「…うん。聞かせてくれ」
「…ロイ」
抱き寄せられるままその胸に顔をうずめて、エドワードは囁くような声音で、紡いだ。
「…お帰り。…ずっと、待ってた」
その言葉を聞いた後、ロイは軽く目を瞠って。それから細めて、そっと、胸に顔をうずめる、その頤を持ち上げた。そうして目を合わせて。どちらからともなく閉じる。
吐息を交換するような、静かな、口付け。
「…ただいま。エドワード」
ソファに並んで座りながら、手だけを繋いで、ふたりはぽつりぽつりとそれまでの話をする。
「…そうそう、そのクレタの王女殿下が言っていた」
「なんて?」
「君と一緒にクレタを訪れるように、と」
「…なんで?」
眉根を寄せた少女に、微妙に照れくさそうに、ロイは返した。
「国に、大事な人がいる、と言ったらね。…一度連れてくるようにと言われたよ」
「……………」
そんなこと言ったのか、とエドワードは呆れ顔である。もっとも、その頬はうっすらと上気していたが。
「…。彼女には、子供がいないんだ」
「…?」
ロイはエドワードの手をきゅっと握って、続けた。
「彼女は、最後の王室だったから、…利用されないために、子供は産まなかったのだ、と言っていた」
産めないことと産まないことは、結果は同じでもその根本が違う。
―――だから、このおばあちゃんに、少しだけ付き合ってちょうだい
そんな風に冗談めかして笑っていたが、きっと、そこに至るまでにたくさんのことがあったに違いない。
そして、己の子供を持たなかった分、国民を本当の我が子のように思い、尽力したのだろう。
ロイにはよくわからないが、…女性は、強い。
「…ふぅん…」
エドワードはぱちりと瞬きした後、…何となく困ったように苦笑し、こつん、とロイの肩に頭を寄りかからせた。そして目を閉じ、答える。
「…オレはいつかは産むよ?」
「………………」
え、とロイは思わずエドワードの顔をのぞきこむ。だが、エドワードは特に照れた様子もなく、目を閉じて何かを考えているようである。
「ロイも言っただろ。…十年もしたら、オレにも子供がいるかもしれない、って」
…確かに、出発前にそんなことを言ったが…。
「名前ももう決まってるし」
「え?」
なんでそんなに展開が速いのか、とロイは激しく動揺した。もうじっとしてもおられず、背中を浮かせて、エドワードの肩を掴んだ。
「エ、エド?」
「………」
少女は、特に慌てることなく目を開き、狼狽している男の顔をじっと見上げた。
ややして、満面の笑み。
…思わず、ロイは見惚れてしまった。
「ばぁか」
くすくすと笑いながら、彼女は指を伸ばして、ロイの額を弾いた。
「…慌てることないだろ。『いつかは』って言ってるんだから」
「そ、…それは、そうなんだが」
「…。ロイが、…オレのこと、星、って言ったから」
この言葉に、男は、…今にして思えば気恥ずかしい、あの書置きを思い出した。…だが、エドワードの表情を見る限りでは、別にからかわれるわけでもないようだ。
「…だから、決めたんだ」
「…何を?」
「子供はね、ふたりはほしい」
「…………………」