太陽と月と星(後)
―――マスタングは既に、ドラクマとの友好条約を締結している。これは相当な快挙だった。
そもそも、ドラクマとはかつて不可侵条約が締結されていたのだが、これが次第に形骸化し、内実としては緊張状態にあったからこそ、マスタングはまずこの基盤を固めるべく北を優先したのである。そして、後ろを固めてから、半交戦状態にある南と西へ回るのだ。
ある意味そこからが彼の交渉術が試されるところだが、…実は、軍上層部には、民衆より先に情報が入ってきているので、焦らざるを得ない状況にあった。
マスタングは、かつて正式に国交も樹立されていなかったクレタと、遂に不可侵条約を取り付けたのだという。一体どんな手腕を使ったかは不明だが、…そもそも国交を樹立したというだけでも離れ業だ。いっそ軍人を辞めて政治家にでも転向した方がいいのでは、と思わせる話である。
そういった感想はともかくとして、…今はまだ彼は帰国していないが、帰ってくれば今度は救国の英雄である。アエルゴを説き伏せることが出来なかったとしても、北と西の守りを固めただけでも充分すぎるほどだ。
しかし、それらは歓迎すべきことではあるのだが、同時に軍上層部にしてはたいへん面白くない出来事であった。
そもそも、ここまでやり遂げた彼である。この先はあまり難事もなくこなしていくだろう。アエルゴで命を落とす可能性もあるにはあったが、彼も馬鹿ではない。危険だと判断すれば、撤退するだけの冷静さは備えているはずだった。しかも、元々アエルゴとの緊張は高まっていたから、南部にはそれなりに兵力が充実しているのだ。一時凌ぐくらいのことはしてのけるだろう。
だとすれば、早急に動く必要があるはずだった。つまりは、マスタングに敵対するか、恭順を示すか、その去就を決めるということ。そして敵対するのであれば、なるべく早く彼の弱みを握っておくことだ。
…ご丁寧に、彼は出発の前、一番の弱点を晒して行ってくれたのだから。
そんな軍上層部の動きを伝えた上で、アームストロングはひとつの提案を持ちかけたのである。曰く、しばらく身を潜めてみるつもりはないか、と。
アームストロングの屋敷の使用人たちは、皆口が堅い者ばかりである。しかし、彼が事業をしている関係もあり、時には外部から人が入ってくる場合もある。今の所危険はないが、彼は、一時匿った格好になっているエドワードとアルフォンスの姉弟を一端どこかへ避難させようかと考えたのだ。
そうして、エドワードにはふたつの選択肢を提示した。
ひとつは、アームストロングと共に、田舎の別邸へ避難するという選択。
もうひとつは、名前と身分を偽り、中央へ避難するという選択。つまりは敵の懐に踏み込むという寸法だ。
…エドワードは、二つ目の選択肢を選んだ。
アルフォンスを頼むとアームストロングへ頭を下げ、自分は、中央へ飛び込むことにしたのである。そうすることで、少しでもロイの役に立ちたかった。
中央への道を選んだ少女に、アームストロングが紹介したのが、中央図書館の館長であるフランチェスカだった。何でも教育関連の事業で交流があるとのことだったが、…よくよく聞けば、フランチェスカは元軍人なのだという。そして、シーラもまた。
今現在の難しい中央図書館の状況を鑑み、抜擢されたのが彼女たちだった。つまりは、荒事が起こっても対処できる人材、ということである。とてもそうは見えないのだが、軍人としてはそれなりに立派な経歴を持っているらしい。
彼女たちは、厄介な事情を持つエドワードを拒絶したりはしなかった。どころか、心強いです、と笑って受け入れてくれたのである。その上、図書館には懐かしい顔ぶれが揃っていた。シェスカは言うまでもないが、そもそも、エドワードは国家錬金術師としてここにはよく顔を出していたから、古株の司書たちには顔を覚えられていたのだ。親しみを持って。
―――そんな経緯があって、「エドワード」が「エトワール」としてここへやってきたのが、一週間前のことである。
「あなたは司書としても優秀だって、司書長さんが褒めてらしたわよ?」
「…オレ、本、好きだから」
本来であれば館長を名乗るはずの司書長―――中央図書館の司書という司書の尊敬を集める女性が褒めていた、と聞き、エドワードは恥ずかしそうに俯いた。
確かに、どこに何の本がある、というエドワードの記憶力は大したもので、シェスカと揃うと最強のコンビだった。
…ただ、夢中になってしまうと他からの一切が耳に入らない難儀な性格も二人一緒だと倍になってしまう、という難点もあったけれど。
「だから、あなたは司書として過ごしてほしいの。…本当に困ったことがあったら、あなたの力を貸してもらうこともあるかもしれないけど」
フランチェスカは、母性を感じられる仕種で、エドワードの頭を撫でたのだった。
遠くアメストリスはセントラルにて、エドワードが俄か司書として働き始めていた頃。遠く異国の地にあったロイはといえば―――。
「…偶然というのは、あるものですね」
ぽつりと呟いた副官の声に、曖昧に頷いた後、彼は日に焼けた顔を車の外へ向けた。
そこはクレタの首都、であった。さらに言うなら大統領官邸へと向かうメインストリート、である。そして車の外では、なにやら人々が旗を振っている。前の車に乗っている女性と男性が、それらの民衆に手を振って応えている、のが、遠目に確認できた。
いわゆるひとつの、パレードである。
「…まあ、…あの子が導いてくれたんだと思うことにするよ」
ロイは肩をすくめ、曖昧にこぼした。
―――クレタとは国交がなかった。ゆえに、まず、国境から交渉は始まった。
当然のことながら、いつ殺されるかわからない緊張が当初は続いていたのだ。だが、転機は唐突に訪れた。
非常にドラマティックな形で。
その時ロイがその川べりにいたのは、本当に偶然だった。朝もまだ明けぬ時間帯に何を思って彼がそんなところをふらついていたのかは、余人には知る術もない。
だが、その偶然が彼と、多分、彼の国をも救うことに繋がったのだといえる。
遠くから悲鳴のようなものが聞こえた気がして、ロイは、顔を上げ、用心深くそちらへ駆け寄っていった。発火布の手袋を隙なく身につけて。
「…!」
そして彼は見たのである。
数人の、一見してはわからないが、しかし身のこなしからして一般人ではないと知れる男達が、用心深くひとつの大きなテントの周りに立ってあたりを監視しているのを。
そのまましばらく、気配を殺して様子を伺っていると、さきほどの悲鳴の主だろうか、ひとりの女性が別の男に引き立てられ、テントに運び込まれようとしていた。その頬にはぶたれた跡があり、…どう見ても、拷問としか取れないような痕跡が見て取れた。
しかし恐らく、今彼女が巻き込まれているのは、単なる暴力ではなかった。それよりももっと組織立ったものに違いない、と、少なくとも戦場を知らないわけではない(内戦ではあったけれど)ロイの勘に訴えるものがあった。