太陽と月と星(後)
女性は、驚いたことにまだ意識も失っていないどころか、激しく抵抗の声を上げていた。残念ながら、他国語であることもさることながら、彼女が激昂しているために内容を把握することは難しかったが、何やら批難していることだけは雰囲気から察することが出来た。
そして。
ロイにもわかる、ひとつの単語を彼女が口走ったのである。
―――王女殿下、と。
その時ロイは思わず目を瞠り、唾を飲んだ。
…国交がなかったのもあり、クレタの内情はあまり知られていなかったのだが、交渉しようというのに「知らない」では済まされない。だから最低限のことは調べたし、知識として身につけていた。
それによれば、こうだ。
クレタは少し前まで王制の国だった。しかし何代か前に大統領制に緩やかに移行されたのだ。最後の王女が大統領に降嫁することで、円満に移行がなされたのだという。さすがに今の大統領夫人のことではないが、未だ王女殿下は存命で、国民の尊敬を集めているとのことだった。
ただ、大分勢力としては弱まったそうだが、しかし、王制の復活を目論む一派も国内にはおり、そんな勢力に「王女殿下」は狙われているらしい。担ぐ玉としてというのもそうだが、中には、民草と共になるなど嘆かわしい、と元王女の暗殺を息巻く過激派もいるらしい。
いずこもお国事情はさまざまだ、とそれらを知ったときのロイは思ったものだが、…その予習のおかげで、「王女殿下」という国民が未だに彼女を慕って使うという呼称だけは早口のクレタの言葉であろうとも聞き取ることは出来たのだ。
さすがに事態に驚いているロイの視線の先で、テントがめくられ、ひとりの女性が堂々と歩み出てきた。殴られた痕のある若い娘が、彼女からしたら母親か祖母くらいの年齢の女性の足元に畏まって身を投げ出す。
現れた、五十代くらいの女性の写真は、ロイも見たことがあった。
彼女こそは、「王女殿下」に違いなかったのだ。
その後「王女殿下」はきっと男達をにらみつけると何事かを抗議していたが、…その後の空気などから、ロイは、事態が動くにしてもすぐではないな、と察した。
しかし放置しておけばクレタの軍なり警察なり、何らかの治安維持にかかわる組織が動くだろう。かの国の軍事力、機動力がいかほどのものかは謎だが、彼らに先んじる必要がある。この好機を活かさぬ手はないのだ。
彼は目視で男達の人数をざっと確認し、それが自分ひとりでどうにかなるかを考えた。
この場合、王女殿下達は非戦闘員のお荷物として加算しなければならない。最悪彼女だけ救出できれば良いのだが、…どうなるか。
―――ここから、ロイ達アメストリスの使節が駐留しているキャンプまでは徒歩でおよそ二十分というところ。走れば、五分。
迷っている暇はなかった。
ホークアイ以下、ロイが本国から連れてきた部下達は選りすぐりの精鋭である。
王女殿下を攫ったのは確かに筋者ではあったようだが、所詮は本職ではない。一気に制圧し、ロイは、堂々とクレタにとっての重要人物を救出することに成功した。
王女殿下は流石に教養豊かで、アメストリスの文化にも明るかったらしく、いささかぎこちない感はあったもの、ロイにもアメストリスの言葉で感謝を示し、それだけでなく、国境を守る警備隊へも彼らを国へ入れるようにと働きかけてくれたのだった。
「…金髪だったんだ」
「…?」
不意に呟かれた言葉に、リザは怪訝そうな顔をした。
「金髪だったんだよ。最初に見かけた、殴られた痕のあるお嬢さんがね」
「………」
目を瞠って黙る副官から照れたように目を逸らし、ロイは小さくこぼした。
「…一瞬、目の前が真っ白になったよ。…情けない話だ」
だからか、とリザは内心で思った。
過激派を包囲し、制圧した時、まずロイがしたのは、ひどい暴行を受けたらしい女性に上着をかけてやることだった。確かに上司はフェミニストな一面も持ってはいるだろうが、それは内実から出るものではなく恐らく表層であろうと感じていたリザは不思議に思ったが、その後を託されたことに関しては黙って女性を預かった。それから彼は王女殿下の元へ向かったのだが、それを見ていて、彼女は、隣国から来た若い軍人を信じる気になったらしい。なればこそ、慣れないであろうクレタの言葉(恐らくルーツとなった言語は同じで、今もそんなにもアメストリスの言葉と違うわけでもなく、似ている部分もあるのだが、それでもまったくの母国語とはわけが違う)で礼を尽くして名乗る彼に、アメストリスの言葉を使って謝意を述べたのだろう。
―――後々、移動中に通訳から受けた説明によれば、王女殿下を攫ったのはやはりクレタの過激派だということだった。彼らは王女殿下の側近を拘束し、拷問することで、誘拐した彼女に王政復古を掲げるよう迫っていたらしい。
クレタの護衛軍は何をしていたのかという話だが、彼らにも色々隙はあるようで、今回はその隙を突かれた形のようだ。
とにかく、国交もない国から来た若い軍人、ロイ・マスタングは、危険人物から国家の恩人(王女殿下は本当に国民人気があるらしい。血筋もさることながら、彼女自身がそれに甘えることなく努力した結果であろう。予習の中で、ロイは、いくつもの病院や学校あ彼女によって設立されたことを知っていた)となりおおせたのである。
おかげで、懸案だったクレタとの国交樹立、不可侵条約の締結、友好国宣言のすべてを呆気なく果たしてしまえたのだった。
いっそ奇跡のような話であった。
そうして、今は、クレタの首都にて王女殿下帰還パレードに参加しているのだから、…世の中何が起こるかわかったものではない。
間に通訳を交えつつ、会食は和やかに進んだ。
王女殿下―――コルネーリア・ドロテアという前大統領夫人は、自分の息子ほどの年の軍人、平和の使者となるべくやってきた青年然とした男に、いくつかのことを尋ねた。アメストリスのこと、これからのお互いの関係はどうあるべきと考えているか、今まで何をしてきたのか…。
そして、その最後にこう尋ねたのである。
「…あなた、大事な人はいて?」
自分のと似た黒い瞳に見据えられながら、ロイは静かに頷いた。
「それは、今あなたの隣にいる方かしら」
リザを示しての問いかけに、ロイは一度瞬きしてから苦笑した。大事な人という表現は曖昧だから、一概にイエスともノーとも言えない。だが、コルネーリアが尋ねようとしている意図を汲むのなら、ノーと答える場面だった。
「彼女は、信頼する私の部下です」
通訳を通しての会話はすこしもどかしい。そう思ったのか、そこからロイは、訥々とではあったけれども自分の口から語りだす。
「…私は、国に、大事な人をひとり、残してきました」
彼の言葉に、コルネーリアは目を瞠った後、母親のような微笑を浮かべた。その笑みに勇気付けられたように、ロイはもう一度口を開いた。
脳裏に思い浮かべるのは、金色の面影。笑い顔も泣き顔も、一瞬にして鮮明な記憶として蘇る。…どれだけ自分があの少女に心を明け渡していのたかと、あらためて思う。
「…彼女に未来を、あげたいのです」