太陽と月と星(後)
…シーラは、実際に会ったことこそなかったが、この少女を前から知っていたのだ。だが、シーラが知っていた彼女の右手は、生身の色はしていなかった。
「…でも、それは…この前叶ったんだ…」
大分省略されていたが、その先は首を突っ込むことでもないだろう、とシーラは判断する。それが出来るくらいには、彼女は充分に大人だった。
「だから、…切ったの?」
かわりに発した問いかけに、少女―――エドワードは幾分迷った後、首を振った。
「…それもあるんだけど…、…聞いたんだ」
「聞いた? …何を?」
「昔から、…女の髪には、魔力があるって、信じられてたんだってさ」
「……?」
「…オレね、…あの、…待ってる人がいて」
恥ずかしそうに、彼女はもごもごと呟き、俯いた。
「だから、…その、…柄じゃないのはわかってんだけど…」
「ああ、…その人が無事に帰ってくるように、…代わりに、切ったのね」
女性が帰りを待つ人のために髪を捧げる…というのは、昔話くらいには聞いたことがあるが、実際にそんなことを今している人がいるとは思わなかった。
「…オレって、ばかだよなあ」
「どうして?」
「…。馬鹿なんだ、すごく」
「だから、どうして」
繰り返し問えば、困ったようにエドワードは笑った。泣き笑いのようにも見える顔だった。
「―――オレね、誰かを待ってるなんて、…もしかしたら初めてかもしれないんだ」
「…?」
「ガキの頃、オヤジが出てって…母さんはオヤジを待ってたみたいだけど、オレは許せなかったから、…帰ってきたって家の中に入れてやるもんか!って思ってた。…まあ、結局帰っちゃこなかったんだけど…母さんが生きてる間は」
「…………」
「そんで色々無茶して、…ほんと、呆れるくらい色々やらかしてきた。危ないこともしょっちゅうだったけど、危ないなんて思いもしなかったんだ」
エドワードのかつての活躍なら、シーラだって良く知っていた。
シーラだけではない。多くの国民が知っているはずだ。
「…皆さ、顔合わすと、無茶ばっかして、って怒ってた。でもオレは聞く耳持たなかった。それどころじゃないって思って、…いっぱい、いろんな人の気持ち、踏みにじったんだと思う」
エドワードは無理をするように一度笑顔を作った。シーラは、その表情に胸が痛くなる。
「あいつは、…あんまり怒らなかった。本当は色々言いたかったんだと思うけど、…待っててくれたんだ。いつも」
目を閉じ、少女は空を仰ぐように顔を上げた。
「…だから、今度はオレが待ってるんだ。…でも、待ってるのって、辛いんだね。…初めてわかった」
囁くように静かな告白だった。
「本当はついていきたかった。隣にいたら、きっと役に立てるって思った。…でも、…待ってたら帰ってくるって、…言ったから」
「…そう」
シーラは微笑を浮かべ、立ち上がると、立ったままでいるエドワードをやわく抱き寄せた。
「…シーラ?」
「…ありがとう、…エドワード」
名を呼び、黒髪の女性は目を閉じた。
「…聞かせてくれて、ありがとう」
「…大した話じゃなかっただろ?」
期待はずれだったんじゃない?、と強がる声がいじらしいとシーラは思った。
「そんなことないわ。…大丈夫、…彼は帰ってくるわよ」
「…、か、…彼なんて、…い、言ってないぞ」
今更なことを慌てて口走る少女の金髪を撫でながら、シーラは笑った。
「そうだったかしら?」
「そ、そうだよ!」
「…じゃあ、そういうことにしておくわ」
「もう…なんだよ、そういうことにしておくじゃなくって、そういうことなんだってば…」
はいはい、と答えるシーラの声は、姉のように母のようにやさしいものだった。
エトワールが司書としてやってきて、一月が過ぎた頃だった。
今ではすっかり利用客にも馴染み、中央図書館のエトワール・コール嬢はそれなりに有名だった。本、知識に対する真摯な姿勢とそれを乱す者への果断な態度をして、ひっそりと「ナレッジ・ガーディアン」などというニックネームを頂戴していたりしたのだが、それは本人の与り知らぬところである。
―――その日は朝から雨が降っていた。
暗い雲が立ち込めるセントラルのストリートには、昼だというのに人通りもまばらだった。
その中を、軍の護送車のような大型車が通り抜ける。
特に騒ぎもないのに物々しいことだ、と道行く人々はその車を振り返るが、特にそれ以上でも以下でもない。
そして車は中央図書館の方へ向かって行った。
不躾な音を立て、護送車のドアが開く。そしてずらりと、一個小隊程度の兵士が乱れなく降りてきて図書館の入口を封鎖する。
突然の事態に、これから図書館を訪れようとしていた人々の目が丸くなる。一体何事かと。
「市民は下がっているように!」
居丈高な命令に、人々は足を留める。
が、元がそもそも、図書館などにしかもこんな雨の日に来ようという人間であるから、頭からこの軍人の命令を飲むようなことはなく、一様に不審そうな目を向けていた。それはそうだ。ある程度の見識ある者なら、一般市民に知識を開放すること、情報を開示することを軍上層部が快く思っていないことを知らないはずがないのだから。
だからこそ、確かに距離を置いて下がりはしたものの、そこに集まっていた人の数は減りはしなかった。それに指揮官らしき男は不機嫌そうに顔をしかめたが、強硬手段に出るのも躊躇われたか、それとも優先すべきことが他にあったゆえか、…恐らく後者だろうが、特に市民の群れを解散させることはなく、次々に図書館の中へと部下を投入させていった。
軍人達が突入してきた時、外にいた人間も驚いたが、中にいた人間はもっと驚いた。静謐を重んじるはずの図書館内部に、女子供の悲鳴が響く。それに指揮官は舌打ちしたが、怒鳴りつけるようなことはしない。
「館長、フランチェスカ・コール!」
大声で彼が呼びつけたのは、既に名物館長として名高い、静かなる女傑の名であった。
「…まあ、何ですの、物々しいこと」
それに応えるように、一見のんびりした様子で出てきたのは、穏やかそうに見える女性。金に近い茶色の髪を、ゆったりとまとめている。
「ふん。…エドワード・エルリックを出してもらおう」
小隊の指揮官は、高圧的に命じる。しかし…。
「エドワード・エルリック? …あら、どこかで聞いたことがある名前ねえ…」
「しらばっくれるな!ここにいると聞いている」
「ああ!思い出した」
「いるんだな?」
フランチェスカはにっこりと笑い、子供を抱きしめて事の趨勢を見つめていた女性はその胆力に目を激しく瞬かせた。
「それって、あの有名な、鋼の錬金術師さんね?」
「そうだ、すぐ出してもらおう」
フランチェスカは、迫ってきたまだ若そうな軍人に、ころころと明るい笑い声を立てる。指揮官の額がぴくりと引きつる。
「あら、それは無理よ」
「なぜだ!」
「だって、いもしない人をどうやって出せるというのかしら?」
「この…!」
「―――大体、誰からの指示があっての突然のご訪問かしら?ぼうや?」
にこり。
きれいに紅を刷いた唇が、弧を描く。
目を奪われるような美しい笑みだったが、―――指揮官は、背筋が冷えるのを感じた。