奏で始める物語【春】
二年間見知った彼に対する恋心を自覚した今、銀八は「これって一目惚れになるのか? いや、でも一年の時から知ってはいたしな」とどうでもいいような、しかし知らず知らずのうちに土方への想いに前向きになっている自分にやはり溜息を吐くのだった。
眠れない夜になりそうだ、と危惧していた銀八だったが、蓋を開けてみればなんてことのない普段通り煎餅布団の上で鼾をかいていた。
朝、目覚めると意外というか、やはりというか、己の神経の図太さに呆れながらも低血圧の身体に鞭打ち、顔を洗っている最中銀八は不図思った。それは彼にとって名案とも言えるものだった。
――生徒と恋人同士になるのは当然ながら許されない事だが、別に自分が一方的に土方を好きになっても、それは自由の筈だ。
――要は土方を巻き込みさえしなければいいのだ。
結論に至った銀八は至極晴れやかな表情で洗面台から顔を上げた。が、髭は剃らなきゃやべーよな、と再び洗面台に向き合うのだった。
学校へ向かう道中、銀八は心中に恋情と穏やかさとそして、諦めた恋心を抱きながら軽い足取りだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
剣道部の朝は早い。と言っても学校に着く頃には他の運動部の生徒も既に登校していた。
武道場に集まった剣道部員達は既に袴に着替えている者も居れば、慌しく更衣室に入っていく者も居る。
その中で土方は既に袴に着替えている者の中に居た。
ランニングを始めるまでの間、彼は武道場に備え付けられている窓から覗く空を一点に見つめていた。
「どうしたんですかい、土方袴を踏ん付けてそのまま顔から落ちて鼻を折りやがれこの野郎」
相も変わらない沖田の言葉にこちらは普段とは違い応酬するのではなく、一瞥しただけで再び視線を空へと戻す土方に沖田は眉を顰める。
気がかりなのではない。単に面白くない、そう沖田は思った。
反応を返さない土方をいい事に沖田は周囲をぐるりと回りながらその姿を好奇の目で見やる。
いつもの土方なら烈火の如く怒りそうな沖田の態度にも土方は何も口を出さない。
おかしい――声には出さなかったが、沖田は心中で呟いた。
沖田の、いや剣道部員が知っている土方はそれはそれは大層な癇癪持ちである。何かにつけて「ぶった切ってやる!」と竹刀を片手に怒鳴り散らすのだ。
好奇を通り越して気味が悪くなった沖田は数歩土方から距離を置く。すると、体格のいい短髪の男が沖田を横切り、替わるように土方に近づいた。
「おー、トシ。今日も良い天気だなー」
「近藤さん」
近藤――土方や沖田と同じく三年Z組の生徒である彼は土方と最も親しい友人と呼んでいい男だ。
一転、視線を空から自分より身長の高い近藤を見上げる土方はどこか安心したような顔つきになる。
「こんだけ綺麗な青空だとついつい見入ってしまうな!」
表裏の無い満面の笑みでそう言う近藤は「でも、これからランニングだ! 気合入れろよ!」と土方の背中を力強く叩いた。
その衝撃に一瞬顔を歪めた土方は次の瞬間には口元に笑みを浮かべる。
「ああ、分かってるよ」
武道場はいつの間にか全部員が着替えを終え、整列をしていた。その前に部長である近藤と副部長である土方が肩を並べる。
「ヨシッ! 新学期も始まった事だし、皆気持ちも新たに気合を入れて練習に励むぞ!」
近藤の覇気のある声が武道場に響く。それに続き部員達の力の篭った返事が木霊する。
校舎を回るランニングは日課になっており、部員の土を蹴る音が他の運動部の練習する声に混じり、まだ静かな学校に響いた。
運動部員ではない一般の生徒達が登校してきた頃。剣道部員は皆汗を拭き、制服へと着替えを済ませていた。
早朝稽古で使用された道具は後輩である二年生が片づけを済まし、近藤からの「また放課後にな!」という簡潔で清々しい挨拶が終わると一様にそれぞれの教室へと向かっていく。
土方らZ組の面々も鞄を持つと武道場を出、渡り廊下を肩を並べて歩き出した。
Z組の教室は二階にある。そして、武道場から教室へ行くにはどうしても通らなくてはならない場所があった。
その事に気付いた沖田は口元に笑みを浮かべた。
昨日の今日だ。銀八は一体どんな顔で出勤してきているのだろう。昨晩は眠れず、隈でも作っているだろうか。そんな好奇心が湧いた沖田は隣の二人に提案した。
「銀八の旦那に挨拶してから教室にいきましょうよ。どうせ準備室の前通るんですし」
「おー、それもいいな」
沖田の意図など知る由のない近藤は二つ返事で頷く。しかし。
「……どうせホームルームで嫌でも顔を合わすんだ。態々行かなくてもいいだろ」
視線を不自然に逸らして低い声で土方は言った。
「しかし、トシ。目上の者に対する挨拶は武士道の中でも当然の様に大切な事だぞ」
普段はお妙を執拗に追い掛け回すストーカー生徒の近藤だが、剣道への想いは人一倍強い。今も真摯に土方に向かって訴える。土方としてはそれとこれとは関係ないんじゃないのか、というのが本音だが、近藤の真っ直ぐな瞳にどうも弱い自分がいることを知っている。
口籠った土方を見て近藤は歯を見せて笑うと「決まりだな!」とその手を引いて準備室へ向かう。
後に続く沖田は先程までの笑みを更に深めていた。
まるで、より一層面白い玩具を見つけた子供のような――いや、そんな可愛いものではなかった。凶悪と無邪気は紙一重、そんな表情だった。
扉を軽く叩くと部屋の中から「誰だー?」という間延びした声が聞こえてきた。
「先生、近藤です。入ってもいいですか?」
「――おお、開いてるから勝手に入れー」
一瞬の間を置いて銀八はそれでも努めて平然を装った声で答えた。近藤の声の傍に恐らくは、と予想を立てた所為だ。
開いた扉から準備室に入ってきたのは近藤と沖田、そして銀八が予想したとおり――近藤の陰に隠れるようにしている土方だった。
フーッと煙を吐き出すと中程まで吸った煙草を灰皿へと押し付ける。妙ににやけた沖田の表情が気にはなったが藪から蛇を出すような失態をするような真似を銀八は間違ってもしない。
あくまで平静に――沖田がそれを見て更に笑みを浮かべようと関係なく――昨日より以前の、生徒と同じ目線を持った自分のままで、気だるげに片手を挙げるとそれをゆらゆらと揺らして挨拶を返す。
「朝練か? 新学期早々ご苦労だな。というか、態々俺の所に来るのが一番ご苦労なこって」
「いえ! 挨拶は基本の基ですから! つきましては先生に相談が!」
そう言うと近藤は銀八に詰め寄ると息を呑み一気に言いのけた。
「お妙さんの後ろの席にしてください!」
――武士道はどうしたんだよ。
土方は額に手を当て、嘆息する。吐露した近藤の正直すぎる行動はいつもの事ながら呆れるしかなかった。
「……朝っぱらから本当にご苦労さんなこって。だけどなー、それは先生にいくら訴えられても無駄だってもんだぞ。今日公平にくじ引きで席を決める予定だからな」
「そこを先生の力で何とか」
「こんなあからさまな不正を要求するとは、お前の中のスポーツマンシップが泣くぞ」
「お妙さんの近くじゃなければ俺が泣きます!」
作品名:奏で始める物語【春】 作家名:まろにー