近いか遠いか、そんなの手を伸ばせば分かる事じゃない
手書きの「やみ」と書かれた紙の貼られた医務室の中。蟇郡は一人……いや、鮮血というセーラー服も合わせれば一人と一枚で、起きることのない流子をじっと見ていた。
本来ならこの部屋につきっきりのはずの満艦飾夫妻は、今食事をとりに行っている。最初は一人が医務室に残るべきではないのかとしぶられたのだが、どうにか押し切って、彼らが帰ってくるまではここで彼女の看病をしていた。
といってもすることはない。うなされることは時折あるが、傷らしい傷はほとんどふさがりかかっている。医療的なことは満艦飾の父親が、身体を拭くなどの看病は満艦飾の母がやっており、蟇郡のできることなど本当にただ彼女を見つめるだけであった。
流子にだけしか聞こえていないらしい、喋って動くことのできる生きるセーラー服は、彼から見ても甲斐甲斐しくずっと流子に付き添っている。
では蟇郡が何をしているのかというと、ただの思索であった。
流子は壊惨総選挙の前にいくつもの部に襲い掛かられた。その間には満艦飾が人質としてとられたことも何度もあった。そのたびに流子は満艦飾を助け、満艦飾は流子に助けられていた。
今考えると当時の自分はなんてことを許していたのだと青ざめそうになるが、また別のことで、時々どうしても蟇郡の頭によぎってしまうことがある。
あのとき、蟇郡の力が及ばず満艦飾がカバーズに吸収されてしまった時。流子ならば助けられていたのではないかと。
だからどうというわけではない。蟇郡に流子を責める気持ちは毛頭なかった。ただただ、本当にそう考え、自分と流子を比較し、またわざわざ比較なんぞする自分のふがいなさに彼は落ち込んでいた。
また、蟇郡は流子に罪悪感を抱いていた。
彼が満艦飾を助けられていたならば、もしかすると今流子は目覚めていたのではなかろうか、と。
満艦飾には暴走して人間の形を失くしていた流子を落ち着かせたという実績がある。流子が眠っている理由はわからないが、満艦飾ならばどうにかして彼女を起こしていたのではないだろうか。また、もし起こすことができなくとも、もし満艦飾がここにいれば今彼の隣で眠っている流子の顔を眺めているセーラー服のように、ずっとつきっきりで彼女を看病していたに違いない。その様子が容易に思い描けるだけに、彼の心の痛みはさらに増した。
蟇郡は自分が無駄に極制服を疲弊させていることも他の四天王に言われずともわかっていた。初めは彼も、冷静にしようと努めていたのだが、ある日、彼は服型カバーズと戦闘になり、服型カバーズを思いっきり殴り飛ばした時にハッとした。
もしかして、今自分が殴ったのは満艦飾マコかもしれない。
実際には違うのだ。彼が殴ったのは例え満艦飾を食った服型カバーズであったとしても満艦飾そのものではない。しかしその服型カバーズに食われた人間たちはまだどうなっているのかさっぱりわかっていないのが現状だった。意外にぴんぴんしているのか、弱っていっているのか、それとも食べられた時点で手遅れなのか。死んではいないだろうというのが初期にたてられた犬牟田による仮説だったが、そのときの蟇郡の動揺にはあまり関係のない話だった。
自分が殴り飛ばした服型カバーズは満艦飾かもしれない、そう考えた彼は思わずその手にこめた力を緩めた。緩めてしまった。しかし蟇郡は冷静な男だ。すぐに力を緩めたことを恥じ、拳を握り直し、そして呆然とした。
彼の周囲にいる何体もの服型カバーズ。そしてヌーディストビーチや他の四天王たちが相手をしている服型カバーズ。殴り、襲い掛かり、切られ、砲撃され、殴り飛ばされる、この服型カバーズの群集の中に満艦飾はいるかもしれない。あの少女が。何の力も持たない少女が。戦うことなどできないだろう少女が。彼が恋をした、守るべき少女が! できることならば立ち尽くしたかった。立ち尽くし、吼えたかった。だが現実はそんなことを許さない。蟇郡の周囲には服型カバーズも、布状カバーズもいる。布状カバーズが人間を吸収して、また「満艦飾かもしれないもの」になる。
人型カバーズを倒すことのできない蟇郡にできることは、緩みそうになる拳を強く握り直し、人々を守るために敵を殴って弾いていくしかなかったのだ。
もし人型カバーズから人間を救い出す手立てが確立されていれば彼もこうはならなかったのかもしれない。しかしそのときはまだ「人型カバーズに食われた人間は死んではいないだろう」ということしかわかっていなかった。彼の鋼の精神は折れることはなかった。ただただ、混迷を極めた。カバーズに対抗するために遠征行けば彼は極制服をボロボロにしながらも鬼神のように活躍し、この医務室に来て、満艦飾夫妻が出ていけば彼はじっと纏流子を見ていた。
一度だけ、彼は眠る流子に向かって謝ったことがある。
謝った理由はわからなかった。もしかしたら流子ではなく満艦飾に向かっての謝罪だったのかもしれなかった。「すまない」、と彼の口から謝罪の言葉が自然とこぼれ出た。
そのとき、ぴしゃり、と彼の脚を何かが叩いた。
びくりとしてそちらの方を向くと、あの生きたセーラー服が蟇郡を見上げていた。セーラー服が話す言葉は纏流子以外にはわからないので、「それ」が怒っているのかも、慰めているのかもわからなかった。蟇郡が医務室に来てセーラー服が何らかの反応を示したのはそのときが最初で最後だった。
その日も彼は流子を見つめていた。満艦飾夫妻が共に食事に席を立ち、自分が出撃していない間のこの時間。先ほどは蟇郡がただただ落ち込むだけの時間ように書いたが、それ以外にも彼に気持ちの整理をつけさせるための静寂でもあった。
そんな静寂を破るのは、いつもこの二人だ。
「あーうまかったうまかった。兄ちゃん、ご苦労さん」
「ごめんなさいね、頼んじゃって」
「いえ。自らお願いしてやらせていただいてることですから」
扉が開き、満艦飾夫妻が入ってきて蟇郡は立ち上がった。そして彼らと入れ違いに部屋から出ていこうとしていた時に、ふと気配を感じて横を見ると、部屋を出たすぐそばの壁に筋肉質な男が背を預けて立っていた。
「よう。あんたが風紀部委員長だな」
「……そうだが。貴様は」
「黄長瀬だ。ちょっと来れるか。あんたの意見が欲しいものがある」
「俺の? 作戦会議の時間はまだだったはずだが」
「それとは別だ。人間一人がすっぽり入って出てくる程度の大きさになるだろうからあんたぐらいしか担げなさそうでな。是非担い手予定者としての意見が聞きたい」
彼の言葉が示すものに瞬時に思い当たり、彼はハ、と息をつめた。
「もしや、それは」
「服型カバーズから人を救出するための装置だ」
蟇郡は背筋を伸ばし、ゴクリとつばを飲み込んだ。
「すごいわねぇ、あの二人。並んだら視界の九割が筋肉で埋まっちゃうわ」
「ったく華がねえなあ。流子ちゃん、はやく目を覚ましておくれよぉ」
作品名:近いか遠いか、そんなの手を伸ばせば分かる事じゃない 作家名:草葉恭狸