37度2分
学園を卒業した日、文次郎とはほんの数言交わしただけで背を向けた。じゃあな、と手を上げたきりのあっさりとしたものだ。文次郎が行く先は知らない。聞きもしなかった。仙蔵も話してない。
学び舎を出てからの日々は、就職した城で与えられた仕事を黙々とこなして過ごした。随分と早い内から、卒業後の進路は忍び働きだと覚悟していたせいか、おかげか、楽しいこともない代わりに辛いことも何ひとつなかった。下働きをこなし、火薬の扱いの腕を買われてからは発明者のような仕事も回された。同僚の誰かがどこぞから奪ってきたのだろう書物や設計図を眺め、仙蔵と同じく火器に精通した者たちと意見を交わしあい、頭を悩ませ、新たな兵器を考案したりもした。それが、実験の段階で暴発して誰かの足を奪っただとか、完成品が戦場で数多の首を飛ばしただとかは、どうでもいい話だ。改良を重ね強力な兵器となったそれを独占するために、開発に関わった者は皆、死んでしまったのもどうでもいいだろう。最後は己が生み出した兵器で仙蔵の四肢も恐らく飛んで消えたのだろうが、やはりそれも、どうでもいい。
仙蔵は忍びだ。名を残したいなどと望んだことはなかった。主の命を果たすための手足にすぎないことも理解していた。主という頭を脅かす毒があると言われたら、切り落とされるだけの手足だ。手足に口はない。だから、過ごした日々に、その終わりに、言いたいことは何もなかった。自分の人生はそんなものなのだろうと受け入れている。
文次郎が卒業してからどう生きてここに来たのかは知らないけれど、似たようなものだろうと予測は出来た。なのでわざわざ問うこともない。ただ、ここに一人で居た間、何を考えていたのか、それは少し気になった。
文次郎が先に行ったと風の便りで聞いたのは、数年前のことだ。誠か嘘か、仙蔵は確かめなかった。真実だろう、と思ったからだ。根拠のない確信だった。お互い長生きしそうだとは思えなかったし、自分より早かったのには驚いたけれど、それだけだ。幾らもしない内に会えるだろうと、それも確信していた。根拠はなかった。しかし、実際に、文次郎は待っていた。そんな約束を交わしたわけでもなかったというのにだ。
信じていた、そう、勝手に信じていたのも馬鹿らしい話だが、勝手に待っていた方も酔狂に違いない。とすれば、お互い馬鹿だったという話だろうか。
二人の間に交わされたものなど、幾度も重ねた熱、それきりだ。愛を交わしたこともなく、約束など何ひとつ交わさず、好きだと、好意の言葉さえ、交わしていない。愛していると、愛されていると、思い込みそうなほど熱かったあの熱を、忘れられずにいた馬鹿が二人いただけ、だろう。
二十年。卒業の日にじゃあなと片手を上げて別れて、二十年。一度も会わずとも、平気だった。
好きなのかもしれないと一度は考えたことさえ嘘のように、日々は恙無くすぎていき、時折顔を思い出して一抹の寂しさを覚えても、それは郷愁に近い。文次郎に限らず他の旧友達を思い出しても同じように切ない痛みを感じたし、それらは全て、いつしか笑みを誘う暖かな過去の日々へと変化していった。
仙蔵にとって文次郎は、けして特別ではなかった。特別なのかもしれないと考えたのが馬鹿らしいほど、文次郎が居なくとも、日々は当たり前に過ぎていく。何の支障もなかった。仙蔵は仙蔵として生きていけた。
だから、あの日々は、その程度だった。その程度の気持ちに過ぎなかった、と仙蔵は納得した。
誰もが通る、麻疹のようなものだ。失えないかもしれないと、特別なのだと、誰かの存在を錯覚する。かけがえのないものだと思い込む。しかしそんなことはない。誰が居ても、誰が居なくても、仙蔵さえ居れば、仙蔵の人生は続いていく。文次郎と離れても、仙蔵は笑ったし、楽しく生きたし、それなりに自分らしく幸せな道を歩いてきた。そういうものだ。人生とはそういうものだから、文次郎へ抱いた、あの不確かな感情も、特別なものでなどなかったと理解した。
けれど、そんなことはなかった。まったくなかった。
その程度の想いだった、と思ったそれは、いつまで経っても「その程度」のまま、それ以上に薄れることがない。他の誰かを思い出すのが数日置きから数ヶ月置きになり、年に一度になり、数年に一度になり、けれど文次郎のことだけは、いつまでもいつまでも、何度だって同じだけ思い返していた。
初めて会った日のこと、机を並べた日々、部屋で話し込んだ時間、すれ違い交わした何気ない挨拶、言葉、夜に交わした熱、六年間で仙蔵が得た文次郎のすべて。何ひとつ、薄れることはなかった。いつまでも同じ重さで、大きさで、仙蔵の心に文次郎は住まい続けていた。
二人は暫し黙り込んだあと、どちらからともなく口を開き、ぽつりぽつりと他愛もない話をした。それは、互いが傍に居た頃の懐かしい話だった。幼い仙蔵が幼い意地を張った恥ずかしい記憶を引っ張り出され、悔し紛れに、お前こそ、と幼かった彼のくだらない失敗を持ち出すと、文次郎は憮然とした顔つきで「うるせえ」とぼやいてふてくされた。その表情は、二十年前と変わらない。ような気がした。仙蔵の知らない文次郎の中に、仙蔵のよく知る文次郎を見付けた。
それでようやく、ああ、と仙蔵は気付く。ずっと空いていた胸の中の空洞にすとんと収まるような、腑に落ちる感覚で理解した。
なあ、文次郎。
「私はやはり、お前が好きなようだ」
空が青いな、と言うような何気ない口振りで仙蔵は呟いた。いいや、本当に、それくらいの気持ちだった。空が青い。風が心地好い。頭の上でさんさんと輝く太陽が、いずれ西に沈み夜が訪れ、月が昇り星が瞬き、そうして東の空が白み日がまた昇る、という当たり前のことのように、仙蔵は、当たり前のように、文次郎を愛していると実感していた。
真っ直ぐに隣を見ると、文次郎もまた正面から仙蔵を見ていた。
「奇遇だな、俺もお前が好きらしい」
文次郎も呟いた。感慨深くもない物言いだ。当たり前のことを口にするように、当たり前の顔をして言った。以前の文次郎ならけして口にしない言葉に思えたが、以前の文次郎には今更聞けないのでわかるわけもない。
「二十年?」
からかい混じりの声で聞いた。
「いいや」
文次郎は首を振る。
「二十六年だろ」
そう言って文次郎は、今までに見せたことのないような、穏やかな微笑を浮かべた。
ああ、と合点がいく。仙蔵は頷いた。
「そうだな」
「そうだ」
以前の文次郎に、以前の仙蔵が聞いても、やはり同じ答えだったのかもしれない。二人はずっと、お互いに、特別に想っていたのだろう。
いいや、本当は。本当は、そんなこと、聞かずとも知っていた。
確かな好意がなかったなら、何故文次郎が肌を許すものか、何故仙蔵が肌を許したものか。本当は、どちらもがわかっていた。ずっと前から。
それをあの頃口に出来ていたなら、今とは違う未来があったのかもしれない。けれどそれを惜しいとは感じなかった。これまでの二十年にあったかもしれない蜜月を、惜しいとは思わない。
あの頃はあの頃で、出来うるすべてをやっていた。口付けもした、熱も交わした、髪に口寄せたりもした。しかしそれからを誓うことは出来なかった。例え誓っていたとしても、嘘臭いと興醒めしただけだろう。