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リバース・エンド

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第二章 罪は消えない 1(8話)


 私は走りました。恐らく、人生で一番必死に走った日でしょう。

 数ヶ月前、私の婚約者が誘拐されました。大切な約束をした、私の婚約者です。その婚約者が、屋敷に帰ってきたと聞き、居ても立ってもいられず、私は彼の元に走りました。

 彼の屋敷には何度も来ています。彼の部屋も知っています。だから、私は迷うことなく走りました。だって私には、確認しなくてはいけないことがあります。

 彼が全てを忘れたと、父から聞かされたとき、私は信じることができませんでした。将来を約束しあったのは、ついこの間の気もします。でも、遠い昔な気もします。それほどまで、身近にいて当たり前だった彼が、私を忘れてしまったなど、なぜ信じられるでしょうか。


「ルークッ!!」

 
 私は勢いよく彼の部屋の扉を開きました。バンッと、すごい音がしました。それだけ慌ててたのです。 …けれど、その時のことは決して忘れません。忘れられません。


「ナタリア殿下、お静かにお願いいたします。主人が怯えておりますので。」


 虚ろな眼差しの婚約者は、なにも知らぬかのよう、椅子に座っておりました。その後ろに、彼はいました。従者である、彼が、ただ静かに佇んでいたのです。

 ――ガイ・セシル。その男を、私は知っている。知っているはずなのに、知らない者と出会うような違和感を感じました。私を忘れたルーク、私の知らないガイ。その二人だけが、室内にいました。

 先ほどの慌しさなどなかったかのごとく、室内には静けさが漂っています。私は動くことができませんでした。私の知っているガイは、ここまで冷たい雰囲気を纏っている男ではありません。確かに近寄りがたい雰囲気がなかったわけではありませんが、それでもここまでではなかったのです。ルーク以外の、全てを拒むかのような雰囲気では。

 その場の空気を感づいたのか、ルークが泣き出しました。その行動にも、ショックを隠しきれません。赤ん坊同然だということは知っていても、実際それを目の当たりにするまで信じられなかったのです。私が呆然としてる間、ルークは赤ん坊のよう、意味もない言葉で泣き続けました。


「客人の前、失礼いたします。」


 そう言い、あくまで使用人としての姿勢を崩さず、ガイはルークを抱き上げ、あやし始めました。その時の表情は、今までの冷たいものと正反対で、柔らかな笑みをルークに向けていましたのです。そしてルークも、母親に抱かれ、安心する子供のよう、彼の服をぎゅっと掴み、ぐずりながらも泣き止んだのです。

私はガイと、あまり会話をしたことはありません。私から声をかけたことは何度かありますが、彼から声をかけられた記憶は少なくてもなかったからです。彼いわく、一介の使用人風情が王族に気軽に声をかけていいわけがない、自分はそういう存在なのだと言いつづけていたからです。私はその言葉に落胆したのを覚えています。私はルーク以外に年の近い友達がいません。ですから、ルークの使用人が年が近いと知った時、もっと親身な友達になれると思っていたのです。

 ルークいわく、彼は使用人としては文句がないとのことでした。私と結婚しても、使用人として城に連れて行くつもりだとも言っていました。けれど、それ以上に使用人としての彼しか自分は知らないとも言っていました。ある意味誰よりも使用人の鑑であると、だからこそガイがわからないとも。

 今、私が見たガイの笑みは確かに使用人のものではなく、一個人のものだったと思えます。それをルークはわかっているのでしょう。やがて、うとうとと眠りにつきました。それを見て、ガイはゆっくりと、壊れ物を扱うかのような手つきでルークを寝台の上に置きました。


「主人は疲れて眠りにつかれたようです。お引取りをお願いできますでしょうか。」

「え、ええ。後日、改めて伺わせていただきますわ。」

「では、そのように主人に伝えさせていただきます。客間のほうにお茶を準備しておきますので、よろしければそちらに案内させていただきます。」


 私は何か、言葉にできない違和感を感じました。それがなんだかわかりません。でも、この場に自分がいてはいけないことだけは感じ取りました。


「ルーク…」


 頬に涙の跡がついたルーク。本当に変わってしまったのだと、実感しました。だから、私は呟きました。以前の彼に戻って欲しくて。


「早く…以前の記憶を…ッ!?」


 取り戻してください。そう呟くことは、できませんでした。使用人の、ガイの無言の表情。いえ、視線が語りかけてきました。



ソレイジョウシャベルナ…と。



 私は震えました。鎖に繋がれていない、檻にも入っていない肉食獣を目の前にしたかのごとく、カタカタと震えてしまいました。自分とそう年の変わらないこの男に、言いようのない恐怖を感じました。


「どうかなさいましたか?」


 そう微笑む姿は、とても美しいもののはずなのに、それが悪魔の笑みに見えたのです。蒼い瞳が、氷の刃のよう、私を射抜くのがわかりました。ルークと結婚すれば、この使用人も私の使用人になるはずなのに。己に仕えることになるはずのこの男が、とても恐ろしかったのです。

 今思えば、これがこの使用人の本性だったのかもしれません。





作品名:リバース・エンド 作家名:三咲 鈴