AQUA
べたべたと肌に纏わりつく不快な潮を、熱いシャワーでムウは洗い流しながら、シャカの謎について考えていた。恐らくシャカの言っていた意味は「間違った答えであっても、それが正しいかどうかは尋ねることを許す」という意味なのではないのかだろうと。
随分とまぁお高くついて、傲慢だな……と思いつつも、ならば、考えてみようではないかとムウは思案する。
キュッとバルブを閉め、タオルでバサバサと髪の水分を大雑把拭き取るとサッパリとした清々しさに頬を緩めた。肌に弾く水滴を丁寧に拭き取ると洗い晒しのゆったりとした衣服にムウは身を包んだ。
(―――あれは復讐の女神の像)
シャカはその存在を知っていた。そこで行われていたであろう秘儀についても知っているようである。彼は幾度となく訪れていたのだろうか?断定できないが、シャカは訪れていたようにムウは思う。
(―――ならば、何のために訪れていたのか?)
誰かに対して、シャカは復讐を果たしたかったのだろうか。
それとも誰かの復讐を止めるために訪れ、邪気を祓おうとしていたのだろうか。
「うーん……」
思わず唸り声が毀れる。あの時のシャカの危険な雰囲気は「邪気を祓う者」というよりは寧ろ、「邪気を放つ者」といったほうが正しい気がした。復讐したいと思うほど、人に対して執着しているようには見えないシャカが、「まさか」とはムウは思うのだが。
一度そう思ってしまうと、なかなかその考えが頭から離れず、飄々と無色の風のようなシャカが突如として澱む空気の様にも感じた。
生暖かい風が横切ったような気配にぶるりと身体を震わしたムウは決意したように立ち上がると、処女宮へと足を向けたのだった。
清浄な小宇宙に満ちた処女宮の蓮華座で瞑想に耽るシャカを見る。ともすれば、眠りについているようにしか見えない。だが、発せられる穏やかな小宇宙は彼が己の深層に潜り込んでいるのだろうと感じ取ることができた。
蒼く広がる世界に袈裟を揺らめかせ泳いでいたシャカはこの地上においても魚の如く、内に広がる穏やかな海の中を泳いでいるのだろうかとムウは見つめた。
金色の睫毛の一本一本が長く、実に見事なカーブを描いているものだと思う。白い貌は一流の彫刻師によって寸分の狂いもなく、完璧なる美を目指し、作り上げた傑作のようでもある。
物の美醜に割合拘るムウにすれば、充分シャカの容姿は称賛に値するものだった。完全なる容姿と完璧なる精神を持ち合わせたシャカ。彼は人として超越した存在であるとムウは思っていたが。
「―――あなたを人として貶める存在は誰なのです?あなたはその者に復讐したいのですか?」
そっと形の良い耳元に唇を寄せ、ムウは囁いてみせた。
最も神に近い位置にいながら、その気高い精神を人として踏み留まらせる存在……恐らく、その者に対しシャカは復讐の念を燃やしているのであろうと推測した。
―――高みへと昇り詰めようとするシャカを大地に絡め取る者。
崇高な魂を手玉に取る相手に少なからず、ムウは羨望と嫉妬の念さえも覚えた。
ムウの言葉が届いたのであろう。僅かに唇を吊り上げたシャカは瞑想の彼方から泳ぎ戻ってくると静かに答えてみせたのだった。
「……その者、己が信ずる道を行く。誰も信じず、また誰をも信じて。類稀なるその力を隠し、ただその時をひたすらに待ち続けた信念の持ち主。権力に屈する事無く、大局を見据え、把握する者。頂点に立つ器も持ち合わせている。だが―――」
そこで言葉を切って、ふわりと風を伴い瞳が開かれた。鋭い瞳がムウを刺した。
「だが?」
静かな怒りの眼差しがムウを射抜いた。瞳の奥にはシャカらしからぬ、激しい感情の渦が見て取れるほどに。シャカは何かを言いかけたが、すっと目を閉ざすと漲らせていた殺気に近い気を一瞬のうちに消し去ってやんわりと笑んだ。
「―――いや。人ひとりに囚われる私ではない。お前の言うような、私を貶める者など存在せね。復讐などという愚かな心は私にはない。あの場所を訪れていたのはひたすらに思いつめることができた者たちの情念を僅かに感じてみたかっただけだ」
すくっと立ち上がったシャカは音を伴うように金色の髪を靡かせてムウの前を横切った。
通り過ぎるシャカを目で追いながら、引き止めることはしなかったが、ただ己の推測した結果と自身の想いを照合したことを口にした。
「もしも、私なら……貴方を留めおくことが罪だとしても、一生その罪を背負っていくことでしょう。もしも、私なら……貴方を貶めることで恨まれたとしても、その恨みを喜んで受けることでしょう。貴方を捉える事が出来るのならば、この命とて惜しくはない。ひたすらに想うことを恐れたりはしません」
まっすぐに背筋を伸ばしたシャカの後姿に向かって、力強くそう言葉にした。ぴたりと一度立ち止まったシャカは振り返ることなく答えた。
「―――滅多なことを口にするものではない、ムウよ。我らには成すべきことがある。逝かねばならぬ時が訪れる。心を残してしまえば大事を果たせぬ」
まるで、想いを断ち切るかのように、すっと奥に消えていったシャカ。ムウはゆるく口角を上げて呟いた。
「―――私は貴方の邪魔はしませんよ。たとえ、貴方を失うことになってもね。貴方が貴方であり続けることができるならば、どのような苦難も痛みも耐えてみせますよ。まだ……終焉の時までは時間があるのです。その時が訪れたとしても、必ず後悔などさせぬようにして差し上げます」
小さな微笑を浮かべると、ムウは纏わりつく邪気を払うように強い眼差しで前を見据え、静寂の処女宮を闊歩する。
逃した魚は大きいなどと恨み言を云うつもりはない。
逃すつもりなどまったくないのだから。
蒼い海を自由に泳ぐ君を
傷ひとつつける事無く、この腕の中に掬い取って差し上げましょう。
きみが最後の一瞬まで泳ぎ続けることができるように
私は……きみのAQUAとなる。