AQUA
AQUA -OCEAN-
蓮華座でいつものようにシャカは内に広がる小宇宙の海を遊泳していた。
さざめく波間を縫って更に深みへと潜り、ただ静寂だけが支配する水底で横たわる。感覚を研ぎ澄まし、冷たい水が本当に存在するかの如く具現化し、遠く水面の彼方に降る光までも、切り取られた映像のようにリアルに再現する。
水面から降り注ぐ光を受け止め、空虚な瞳で生命の泡沫が流れ行くさまをシャカは見つめていた。
水底から次々に沸き出でる泡沫。
それは連なるように水面を目指し、空気に触れた途端、弾ける。
(―――いや、大気へと融合するというべきか)
ゆらゆらと水面を目指す泡沫のひとつひとつが、まるで人間の生命のように思えた。
(―――弾けてはまた水底に湧き出で、再び水面を目指す。繰り返される輪廻の如し。私は永遠の遊戯の果てに何を成すのだろうか)
無音の世界に埋没しかけた時、処女宮を訪れる者がいた。放つ小宇宙でそれが誰なのかもわかってはいた。
別段、危機迫っているわけでもないのに如何様かと思いつつ、ゆっくりと水面を目指して浮上する。ゆらゆらと浮力に導かれるまま、眩しい光を見つめながら水面近くに達した時、白い指先を伸ばした。
水面に映る、もう一人の己の指先が触れたと同時に重力を感じた肉体。なだらかに弧を描く眉を僅かに顰めた時、静かに声がかけられた。
「―――シャカ、私という海に飛び込んでみる勇気はありませんか?」
瞑想から戻ってきたばかりであるというのに、不意打ちのようにかけられた意味深な言葉。シャカは咄嗟に返す言葉を失い、無表情のまま顔をあげた。むろん、瞳は閉じたままである。
「いきなり、何を言い出すのか……まったく、きみという男は。そんな下らぬことを申すために、わざわざ処女宮まで足を向けたのかね?まったく随分とご苦労なことだ」
皮肉っぽく口元を僅かに歪めて淡々と答えるシャカに対し、ムウはクスッと笑みを零した。
「いきなり、でしょうか?ずっとこの言葉を貴方は待っていたのではありませんか」
感情を抑えた表情のままシャカはその言葉を受け止めると、呆れたように一度溜息をつき、やや間を置いて答えた。
「不躾なこと極まりない。なぜ私がそのような愚かな言葉を待つ必要があるのかね。冗談も大概にせよ、ムウ」
シャカはフイッと顔を背け、組んでいた脚を外すと立ち上がった。
すると、すかさずムウが手を伸ばし、シャカの右腕を掴んだのだった。シャカは眉を顰めると、断りもなく己の身体に触れたムウを厭わしそうに閉じた瞳のまま睨んだ。
「……何かね」
「私は危険な海流と知りながらも、貴方の呼びかけに応じてあの断崖絶壁の海へ飛び込んだのです。今度はシャカが飛び込む番ではありませんか」
ムウの挑戦的な物言いに不快感を露に、シャカは表情を険しくした。
「勝手なことを……」
あの晴れた空の下―――ギリシャの輝く青い海にシャカは身を委ね、13年という時を経て再会したムウを青い海へと誘ったのは事実である。
誘ったのはほんの些細なことで興味を持ったムウが、己をずっと視ていたことをシャカは気付いていたからだ。
なぜムウが視ていることにシャカが気付いたのか。
それはムウよりもずっと以前から教皇の……教皇に扮したサガの勅命により密かに監視していたからだ。ムウに気付かれずに彼の行動を監視するのはなかなかに骨の折れることだったが、それでも監視を続けていた。
シャカはずっと13年もの長き月日の間、ムウを視ていたのだ。だが、その事実をムウは知らない。シャカがずっと視ていたことを、どのような想いでシャカがムウを視ていたのか彼はまったく知らなかったのである。
その「監視」が、「見守る」ようになるのに、そうは時間を要しなかったことすらも。
ジャミールの奥底でただひとり、じっと孤独に耐えるムウの姿は凍る感情に支配されるシャカでさえも胸打たれるものがあった。仄かに芽生えた想いは少しずつ時を経て、思慕へと変化していった。だが、それはあってはならぬこと。無情であり続けなければならないのだとシャカは己を戒めた。
想いの糸を断ち切るためにシャカが訪れたのは偶然知った秘密の場所。
ギリシャの海に隠された、本来なら忌むべき場所だった。その昔、秘教が執り行われたその場所を訪れることで、人の情念渦巻く其処にあっては己が抱いた感情も薄く冷たいものだと、すぐに断ち切れる糸であろうと思いたかったのだ。
そんな浅はかな願いも虚しく、邪気に惑わされたわけではないだろうが、人を思う気持ちの強さや絆といったものに、シャカはより心惹かれるようになった。己には欠けた感情ともいえるその想いに焦がれたのかもしれない。結果的により濃く、想いを募らせる羽目になったことなど、ムウには判るはずもないことだった。
なぜムウをあの青い海へと導いたのか……それはシャカの想いなど知らぬままでいたムウに己の抱いた感情を僅かにでも知らしめたかったのかもしれない。或いは己を地上に縛るムウへの何らかの意趣返しをしたかったのかもしれないとシャカは思うのだった。
シャカは沈黙したまま思いを廻らす。ムウという男が一筋縄では立ち行かない手強い相手だとはシャカも判っていることだ。
だが、シャカはムウの挑発に決して乗るわけにはいかなかった。
シャカにとっては『今更』なのだ。過ぎた13年の日々はもう戻ることはないのである。
僅かに声を硬くしながらも、ムウの言葉を受け流すように告げた。
「―――断崖絶壁というほどのものではなかったであろうし、確かに私は声をかけたが強制はしておらぬ。きみはきみの意思で、あの海に飛び込んだのだから。私がきみに強制される覚えもなければ、きみほどの危険な……時化(しけ)た海に飛び込む必要もなかろう」
ムウの手を振り解き、それ以上は関わるつもりはないとばかりに誰にも邪魔されぬ場所へとシャカは向かった。するとウは怯む様子もなく、シャカの後に続く。
「どこへ行くのです?」
そう尋ねるムウを無視したまま、足早に向かった其処に辿り着いたシャカは、立ち止まるとようやく振り返った。口元には薄い微笑みを浮かべて。
「ほう……?もう一度、きみは私の海に飛び込む気かね?」
今度はシャカがムウに対し、挑発的な態度を取った。絶望の海を視てムウは果たしてどのように行動するのか―――残酷な想いがシャカを満たした。
「それはどういう意味なのでしょうか。この先に潮満ちる海があるということですか。ならば、一度拝見したい。処女宮の謎をひとつ紐解くことができるなら、私の旺盛な好奇心も心満たされることでしょうからね」
さもあらんとばかりに大仰に両腕を広げたムウは余裕の笑みをシャカに向ける。僅かにシャカは顔を歪めたが、すぐに表情を戻した。
「フ……まったく、ムウも物好きな。だったら、きみの好きにすればいい。ただし……中に入ることができればの話だがな……」
そう捨て台詞を吐くと、そのままスウッ―…とムウを置いて扉の内にシャカは姿を消した。其処はシャカ以外、誰も立ち入ることのできぬ『覚悟』の世界であった。