AQUA
「―――あの扉は貴方の心の扉。そして、此処は貴方の心そのものなのでしょうか。見た目には美しい花園でありながら、なんて残酷な場所。まるで光差さぬ深海のよう……その海中で聖衣の重みに耐えることも出来ず、自由に泳ぐことも出来ずに、溺れているのでしょうか。シャカ、貴方の身体を覆う聖衣はきみの心を覆う鎧。ひとつずつ引き剥がしてあげます。頑な貴方の心を解きほぐすように。貴方が再びあの青い海で自由に泳ぐことができるようにね。それは私にとっても、きっと意味のあることなのです」
容易に入れぬはずの場所にいとも簡単に入り込んで、シャカの目前に姿を現したムウは周囲の景色に目を向けながら淡々とそう告げたのだった。
「なぜ―――入れた?」
思わずシャカは驚きの表情をムウに向ける。不思議そうに亜空間に広がる花園を眺めていたムウはくるりと振り返ると腰を下ろしていたシャカを見た。
「なぜ、と仰る?先ほども言ったように、貴方は待っていたのでしょう?私を。違いますか?違わないと思いますが。シャカ、人は独りで生きていけるものではないのでしょう。私はずっと独りだと思っていました。ずっと……ね。でもそれは間違っていた。この場所に立って私の疑問は確信に変わりました」
云いながら近づき、ストンとシャカの前に胡坐を組むように座ったムウは真正面にシャカを捉えて静かに見据えた。
「―――静謐の世界。君の覚悟がひしひしと伝わってきます。私も感じることができますよ。この先に起こる未来を。ここでシャカの命が果てるのですね……貴方が私を見守り続けてくださったように私も見守りましょう。決して、貴方の行く道を塞いだりはしない。たとえそれがどのように残酷なことだとしても」
「ムウ……」
「許して欲しいのです、シャカ。ずっと気付かずにいた私を。でも……いい訳くらいはさせて下さい。貴方があまりにも見事だったのです。私はてっきりあの人かと……シオン様が死してなお、私を見守って下さっているのだとばかり思っていたのです。君だったなんて思いもよらぬことでした」
「―――私は見守っていたわけではない。きみを監視していたのだ。教皇だと信じていた者に……命じられるまま」
「最初は、ではないのでしょうか。シャカ……もう、お止しなさい。偽る必要など何一つないのです。私たちに残された時はそう長くはないのですから。私にとっても、貴方にとっても一分一秒たりとて、無駄に過ごすことは許されない。貴方の残された時間を私に頂きたいのです。そして私の残された時間をシャカ、きみに受け取って欲しい。どれほど傲慢なことを言っているのか判っています。ですが、考える時間を与えることさえも私は惜しいと思うのです」
「即答しろ、ということなのか?」
「いいえ、そうではなく。貴方はもう答える必要はないのですよ。もう答えてくれていますからね」
さわと吹く風にムウの髪が揺れ、じっと見据える瞳をシャカもまた瞳を開き見据えた。
何もかもを受け入れるというのだろうか……シャカの心中で惑う風がそのまま花咲く園を吹き抜ける。
「きみは……私を地上に留めるのか」
「違いますよ。私はシャカがより遠くへと飛び立てるように風となるのです。もしくは潮となって、より深く貴方が潜ることができるように貴方を支えるのです。それにシャカの惑いの元を断ち切ることができるのは元凶ともいえる私のみでしょう」
「憎らしい男だな」
「憎んで下さってかまいませんよ。愛しみながら、憎むほどに私に捉われるなど、貴方に似合いませんけれども」
「―――つくづく君は口の減らない、嫌な男だ」
「よく言われます。目の敵にされることも、ね。それでも相手の印象深くに残れるなら、しめたものです。幸いにも貴方は私に違う印象を抱いてくれたようですが。それなのに私が知る貴方はほんの一部でしかない。もっと貴方を知りたい。シャカが私を知るすべてと等しく……私もまた貴方を知りたいのです」
さわと吹く風がシャカの周りを包んではムウへと流れていく。ゆるやかに吹く風に舞う髪が頬にかかり、シャカの表情を覆い隠した。
「きみには知る権利がある、そう言いたいのかね」
「権利を主張するのではなく、むしろ……義務ではないでしょうか。私はシャカを知らなければならない。知らぬことが多すぎる。歯痒いほどに……悔しく思うほどに」
それは冗談でも偽りでもないのだろう。ムウは厳しい瞳でシャカを見つめ、ぐっと拳を握り締めていた。静かな怒りを内に向けるムウをシャカは見定めるように顔を上げて青い瞳で見つめた。
「私の何を知りたいというのか、きみは」
「そうですね……色々と知りたいです。というよりは貴方の口から直接聞きたいことがあります」
まっすぐに見据えるムウの瞳がすべてを見透かすかのようにシャカを捕らえる。息苦しくさえ感じるほどの強い眼差しに瞳を逸らしたくなるほど。だが、それを許すほど甘い男ではない。
「ならば、問うがいい」
観念したようにシャカはニ、三度首を左右に振り、一度大きく息をつくとムウを見た。
「では、お言葉に甘えて。シャカはなぜ私を見守っていたのでしょうか。監視ではなく、貴方は私を見守っていた。なぜです?」
「まったく、神仏よりも容赦のない問いだな」
「話を逸らそうとしても駄目ですよ。お答え下さい」
「わかっている。だが、私の中でもどう答えればよいかわからぬのだ。“なぜ”、“どうして”私自身、何度も思い巡らせては答えを得られず、苛立つのだ。不可解極まりない。君ならばどう答えを導き出す?」
「質問しているのは私のほうなのですけれど。まぁ、いいでしょう。そうですね、私なら―――」
そういってムウは腕組みし、右手を口元に宛がうと瞳を閉じて思案した。ひとときの間を置いて、ゆっくりとムウは瞳を開けるとシャカに向かって、すうっと手を伸ばす。
「―――私なら、考えるよりもこうして……確かめます」
そのままそっと引き寄せられたシャカはムウの腕の中に納まる。ムウの鼓動が布越しに届いた。