凛誕!
冬の夜(遙凛)
夜は更けゆき、やがて日付が変わった。
凛は岩鳶市にある祖母の家にいる。いつもは鮫柄学園の学生寮で生活しているが、土曜日、水泳部の練習が終わってから、ここに来たのだ。
期待していたわけではなく、たぶんそうなるだろうと予想していて、凛は起きていた。
そして、予想したとおり、日付が変わった直後から携帯電話にメールが届き始めた。
『凛ちゃん、誕生日おめでとー!』
『誕生日おめでとう、凛』
『凛さん、誕生日おめでとうございます』
『凛先輩、誕生日おめでとうございます。先輩が生まれてきて、本当に嬉しいです!』
『松岡、誕生日おめでとう!』
続々と送られてきたメールを読み、送り主の顔を思い浮かべ、凛はかすかに笑う。
生まれてきたことを祝われるというのは、やっぱり、いいものだと感じる。
それから、ふと、メールを送って来なかった者の姿が頭に浮かんだ。
アイツは早寝早起きで、夜更かしはしないから。
面倒くさがり屋だから。
別に、かまわない。
そう思ったとき。
手に持っている携帯電話が鳴った。
メールを受信したのではなくて、電話がかかってきたのだ。
画面に表示された名前を見る。
凛は眼を見張った。
嘘だろ、と思った。
電話にでる。
「はい」
『凛』
聞こえてきた声は、画面に表示された名前のもの。他の者がその携帯を使ってかけているのではない。
「なんだ、ハル」
心の揺れを相手に感じ取られないように、凛はぶっきらぼうに言った。
すると。
『誕生日おめでとう』
遙がいつもの感情のこもらない声で淡々と祝うのが聞こえてきた。
また心が揺れた。
しかし、それを抑えつける。
凛は軽く笑った。
「まさかおまえが電話をかけてくるなんてな」
からかうように言う。
「おまえは早くに寝るし、面倒くさがり屋だろ?」
『驚いたか?』
「ああ、驚いた」
素直に認める。
まさか、あの遙が誕生日になった直後に祝う電話をかけてくるなんて。まったく想像していなくて、本当に驚いた。
驚いているだけじゃない。
どうせ電話の向こうにいる相手には見えないから、凛は頬をゆるめた。口元に笑みが浮かぶ。
『じゃあ』
遙が言う。
『もっと驚かせてやる』
え、と凛は思った。
『外に出てこい、凛』
その遙の言葉の意味。
それがわかって、驚いて、それから急いで立ちあがった。
部屋から出る。
家の中は暗くて、静かだ。
江はまだ起きているかもしれないが、母親や祖母は寝ているだろう。それを起こさないよう、物音をできるだけたてないようにして、けれども急ぎ足で、玄関のほうへと向かう。
やがて、玄関に着き、戸を開けた。
冷たい風が吹きつけてきた。
眼のまえに、夜の闇が広がる。
その黒色を背景にして、白いものが散っている。
雪だ。
雪が降っている。
だから、こんなに寒い。
こんな寒い外に。
そう思うと、胸が締めつけられた気がした。
凛は門のほうへと進んでいく。
門を通りすぎた。
家のまえの道に出る。
そこに、いた。
遙が、いる。
コートを着て首もとにはマフラーを巻いた格好で、雪の降る中、立っている。
静かな瞳を凛へと向けている。
嘘だろ、と思った。
「……なんでだ」
ぼうぜんとしつつ、口が勝手に動く。
「なんで、おまえはここにいるんだ?」
早寝早起きが習慣で面倒くさがり屋の遙が、なぜ、こんな深夜に、こんな寒い外にいるのか。
遙は静かな表情のまま、口を開いた。
「そんなの、おまえが好きだからに決まっているだろう」
いつもよりも強い調子で言った。
その遙の声が、耳に、心に、響いた。
本当は、聞かなくても遙が今ここにいる理由はわかっていた。その気持ちはわかっていた。
わからないはずがない。
遙はここに来るのに、きっと電車は使っていない。
遙の家から凛の祖母の家までの距離は、凛にとっては陸上トレーニングで走る距離だ。ふたたび競泳を始めた遙にしても、それほど苦しまずに走れる距離だろう。
でも、楽ではないはずだ。
まして、今は深夜で、しかも雪の降るような寒さだ。
そんな中、やってきた。
やってきてくれた。
その気持ちが、わからないはずがない。
心を揺り動かされ、感情がわきあがり、高波のようになって、頭まで押し寄せてくる。
頭が重く感じる。
凛はうつむいた。
ここまでされたら虚勢が張れない。ごまかせない。
「なんでだ」
問いかける。
「おれは勝手なことばかりしてるのに……!」
声が震えた。これでは、うつむいていても泣いているのがわかってしまうだろう。
視野に、靴が入ってきた。
遙のはいている靴だ。
近づいてきたのだ。
「たしかに、おまえは面倒くさい」
遙はいつもの声で答える。
「でも、目指すものがあって、それに真っ直ぐ向かっていくところに、ひきつけられる」
「だが、おれは大きく転んだ。真っ直ぐ向かっていけなくなった。それで荒れて、おまえに当たったりもした」
「大きく転んで、だが、そのあと立ちあがっただろう」
「おまえが助けてくれたからだ」
自分ひとりでは立ちあがれないままだっただろう。情けないことに。
「俺は自分のやりたいことをやっただけだ」
遙はそう言いながら、腕をあげた。
「だが、もし、俺がおまえを助けたと思っているのなら」
その手が凛のほうへ伸ばされる。
「これから先もおまえを助ける権利がほしい」
その手が触れてくる。
そして、引き寄せられる。
凛はあらがわなかった。
遙に身体を預けた状態で、言う。
「おれもおまえが好きだ」
涙が止まらない。止まってくれない。
「でも、自分がおまえにしてきたことを思えば、そんなことを言う資格はねえって思ってた」
本当は、誕生日を祝うメールが次々に届いたとき、でも遙からはメールが来なくて、さびしいと思った。しかし、遙は早寝早起きだからとか面倒くさがり屋だからとか思って自分を納得させた。
だから、電話をかけてきてくれただけで、充分、嬉しかった。
けれども、その嬉しい気持ちを抑えつけて、隠した。
照れくさかったからだけじゃない。
自分には望む資格がないと思っていたから。
「……バカだな」
遙の声が聞こえてくる。
「おまえは、本当に、バカだ」
いつもは感情のこもらない遙の声が、今は、優しい。
その声が心にじんわりとしみて、胸の中にひろがっていく。
凛の背中にある遙の手が動くのを感じた。
なでられる。
その手のひらの温かさが伝わってくる。
なにも考えずに、凛の手が動いた。
遙の背中に手をやる。
その身体を抱きしめた。