凛誕!
次のイベントの話(凛遙)
冬の風が吹いている。しかし、今日は天候が良くて、二月にしては暖かい。
遙は走っていた。
岩鳶スイミングクラブで泳いだ帰りである。
家が近所で行動をともにすることの多い幼なじみの真琴はいない。今日は家の用事があるらしくスイミングクラブは休んだ。
遙の走る足取りは淡々としている。
スイミングクラブから家までは二キロメートル程度だ。去年までは自転車でスイミングクラブに通っていた。自転車ではなく走って通うことにして、ひさしぶりに長距離を走ったときは苦しかった。しかし、今は長距離を走ることに身体が慣れてきているのを感じる。
自転車で通うのをやめ、二キロの距離を走ることにした、きっかけは。
遙の頭に、屈託無く笑う少年の姿が浮かんだ。
アイツのことなんか。
そう反撥する気持ちが胸にわいて、頭に浮かんでいるものを消し去った。
やがて橋が見えてきた。川幅のある一級河川にかかる大きな橋だ。
橋を渡り始める。
少しして、背後から足音が聞こえてきた。リズミカルな、走っている足音。それはどんどん近づいてくる。
「七瀬!」
追いつかれる直前に呼びかけられた。
遙はわずかに眉根を寄せ、それから足を止めた。
横に並んでくる。
そちらのほうを遙は見た。
向けてこられる、屈託のない笑顔。
「なあ、ちょっと休憩しようぜ」
明るく提案しつつ、凛は橋の欄干に手を伸ばした。
遙は無表情かつ無言のままで、うなずくこともしなかったが、凛が橋の欄干の向こうの川を眺める形で立つ隣に、同じように立った。
スイミングクラブから凛の家までの距離は三キロちょっとあるらしい。その距離を凛はあたりまえのように走る。陸上トレーニングとして。
小学校のクラスでの凛はお調子者の人気者。よくしゃべり、バカみたいに笑う。そんなふうに笑いながら、凛の水泳に対する思いは真剣そのものだ。どうすれば速く泳げるようになるかを考え、身体をきたえている。
陸上トレーニングできたえた足が生み出すキック力は凛の武器となっている。
それに気づいて、遙も走るようになった。
凛なんかに触発されたなんて、あまり認めたくない事実なのだが。
しかし、凛の泳ぎを見ていると、自分よりも水を感じているように思えて、無視できない。
「もうすぐバレンタインだよな」
凛は水泳とはぜんぜん関係のないことを言った。
「そうだな」
遙は相づちを打ち、それで終わらせても良かったのだが、なんとなく付け足す。
「おまえはたくさんチョコレートをもらいそうだな」
すると、凛は微妙な表情になった。
なぜそんな表情になったのか、遙は不思議に感じた。
凛は人気がある。それは恋愛対象としても、だ。
そのことを本人は認識してないのだろうか?
「おまえ、去年、佐野小で、たくさんもらわなかったか?」
普段は口数が少なく他人にあまり関わろうとしない遙だが、思わず、たずねた。
凛は岩鳶小学校に転校してくるまえは佐野小学校に在籍していた。
「うん、まあ、もらったけど……」
そう答えた凛の歯切れは悪い。
「俺、食えないってほどじゃないんだが、甘いもんは苦手なんだ」
「そうか」
なるほど、だから微妙な表情になったのか、と遙は納得した。
しかし、それでバレンタインデイの話は終わりにならなかった。
「だから、七瀬からのチョコレートだけでいい」
その凛の台詞を聞いて、遙は一瞬固まった。
なにを言っているんだコイツは?
遙は無表情のまま口を開く。
「おまえにチョコレートをやる予定はない」
「なんでだ」
凛は食いさがってくる。
「くれたっていいだろ。だって、俺たち、キッ、キスしただろ」
変なところで言葉を詰まらせるな、声を裏返させるな、顔を赤らめるな、こっちに恥ずかしいのが移るだろう!
そう胸のうちで怒鳴りつつ、それでもどうにか無表情を維持し、遙は言い返す。
「あれは、おまえが、いきなり、勝手に、したことだろう」
わざと、ゆっくりと言った。
凛は口をへの字に曲げた。
その眼が遙からそらされる。
「……なんだよ」
ひとりごとのように凛はぼそっと言う。
「好きなのは俺だけなのかよ」
くやしそうな顔をしている。いつもの明るくて元気な様子はどこにもない。落ち込んでいるようだ。
なんだ、この可愛い生き物は。
遙はそう思い、それから、そう思った自分に驚く。
つい手を伸ばして抱きしめたくなるぐらい、可愛い。
だが、相手は凛だ。
自分よりも体格が良く、やたらと挑戦的な凛だ。
そんな凛を可愛いと思うなんて!
ありえない。
どうかしている。
「……わかった」
冷静を装って、声に感情が出ないようにして、遙は言う。
「チョコレート、やる」
「ホントか!?」
凛が遙を見た。さっきまで落ち込んでいたのが嘘のように、その顔は輝いている。
チョコレートをもらえるぐらいでそんなに喜ぶな、と遙は苦々しく思いながら、できるだけ淡々と告げる。
「甘くないチョコレートを作ってやる」
「いや、なんかそれヤバそうな気配がするから、普通の、甘いヤツでいい」
「わかった」
無表情のまま遙はうなずく。
じゃあ、激甘なヤツを作ってやろうか。
そんないたずら心がわき、バレンタインデイ当日に受け取った凛がその激甘チョコレートを無理矢理食べている姿を想像してしまい、胸のうちでひそかに笑う。
すっかり上機嫌になった凛が欄干から離れる。
遙も欄干から離れた。
そして、走り出した。