未来話詰め
やめたくない理由
活動拠点を海外に移している凛は日本に帰国し、遙の家にいた。
凛は机をまえにして座り、緊張の面持ちである。
机の上には、さっき凛が置いたばかりの小箱がある。
小箱には指輪が鎮座している。
「遙、結婚しよう」
いつもは遙の意向を尊重してハルと呼んでいるが、こういう場面なので遙と呼んだ。
プロポーズされた遙は机の向こうで無表情のまま黙っている。
凛は遙の返事をひたすら待つ。
しばらくして、遙が口を開く。
「してもいいが、条件がある」
「なんだ?」
「遠距離結婚だ」
「えっ」
「おまえは海外に単身赴任ということで」
「なんでだよ!?」
「仕事をやめたくない」
驚き困惑する凛に対し、遙は冷静に告げた。
凛は考える。なぜ遙はこんな条件を出してきたのか?
「……そんなに、おまえ、英語が嫌なのか?」
学生時代の遙の不得意教科は英語で、帰国子女で英語の得意な凛が先生として勉強につきあったこともある。
「だが、できるだけ俺が助けるし!」
だから、海外で自分が暮らしているところに来てほしい。
そう眼で訴える。
その凛の必死な視線を受け止めて、遙はふたたび口を開く。
「英語が苦手だから、というのは、たしかにある。でも、そうじゃない。仕事をやめたくないんだ」
「今の仕事が気に入っているからか?」
「そうだな、気に入っている」
遙はうなずいた。
「でも、それが理由でもないんだ」
「じゃあ、なんだよ?」
「……競泳の選手で、いつまでもいられないだろう?」
そう落ち着いた声で問いかけられて、凛はハッとする。
競泳の選手でいられる期間は長いとは言えない。一般的な社会人からは若いと言われる年齢で引退することになる。
遙は続ける。
「いつかおまえが引退して、違う世界へ行こうとするとき、こっちに収入があったほうがいいだろう?」
淡々と、まるで凛に負担を感じさせないように、話す。
「生涯をともにするって、そういうことだろう?」
遙が凛に向ける瞳は静かだ。しかし、その芯は強い。
穏やかに告げられた遙の言葉が、胸にじんわりとしみる。
そして、ふと、思いついたことがあった。
「大学受験のとき、おまえにしては妙に堅実な選択をしたと思ったが、もしかして、あのときから考えてたのか?」
つきあい始めたのは高校生のころだ。
「ああ。将来食いっぱぐれのなさそうな職に就ける進路を選んだ」
あっさりと遙は認めた。
「そのために、受験の際、おまえには本当に世話になった」
大学受験まえ、遙は他の教科では高得点を取れても英語でかなりの点数を失い、受験科目の合計点で希望大学の合格水準に届かない状態にあった。
だから、凛は遙の英語の勉強に徹底的につきあって、最終的には合格ラインまで持って行ったのだった。
あのとき、めんどうくさがり屋の遙がなぜそこまで一生懸命苦手教科を勉強するのかを深く考えなかった。希望する大学に受かりたいんだろう、としか思ってなかった。
あのころから遙は将来のことを真剣に考えて動いていたのだ。
いざというとき、凛を支えられるように。
「まさか、おまえが競泳の選手を目指さなかったのも、そのせいか?」
「まさか」
今度は、遙は首を横に振った。
「おまえとは違って、勝ち負けにこだわらずに、自由に泳ぎたい。自分は競泳の選手には向いてない。そう思っただけだ」
だが、遙が本気で目指せば、世界で通用する競泳の選手になれただろう。
遙には才能がある。自分よりも、ずっと。そう凛は感じる。
しかし、目指さなかったのは、本人の言うとおり、その気質には向かなかったからだろう。
もったいなくも感じるが、そんなことは、きっと、言うべきじゃない。
「でも、おまえが勝ち負けにこだわるのを否定するつもりはない。おまえが毎日頑張っているのを知っているから、応援したくなる」
いつも無表情な遙の顔が、ふと、やわらいだ。
優しい表情。
「見たことのない景色、見せてくれ」
遙は言う。
「それが終わったら、また別の景色を見に行こう」
その手を凛のほうへ差しだしてくる。
「ふたりで」
高校二年の地方大会のときも、遙は凛のほうに手を差しだしてきた。
だが、あのときの遙の手は手のひらが上を向いていた。
今の遙の手は甲が上を向いている。
その手を、凛は取った。
「……あのな、俺はおまえより計画的な性格なんだよ」
凛は遙の眼を、好戦的に、からかうように、見る。
「そんな俺が引退後のことをなにも考えてねぇと思ってたのか?」
もちろん、そんなわけがない。遙が高校卒業後の進路を決めるずっとまえから、凛は自分が競泳の選手となり、その引退後どうするのかを考え、動いてきた。
だいたい遙は今の凛の収入がどれぐらいなのかを知らなさすぎる。それに、凛はたくさん稼いでいるからといって浪費するタイプでもない。
「俺は引退後に家族を路頭に迷わせるようなことはしねぇよ」
プロポーズしたのだって、自分だけでなく相手の未来を考えても大丈夫だと思えるぐらいになったからだ。
「だから、安心して飛びこんでこい」
凛は遙の手を持っていないほうの手で机の上にある小箱に鎮座している指輪をつかみあげた。
それから、指輪を遙の薬指にはめる。
遙は無表情にもどり、その指輪をじっと見ている。
しばらくして、遙はその眼を凛に向けた。
「だが、すぐにというわけにはいかない」
「んなこと、わかってるよ」
仕事の引き継ぎなどの時間が必要なのはわかっている。
凛は笑う。
まだ、ということは、やがては来てくれるということだ。
遠回しな表現ではあるが、凛の希望を受け入れるという返事なので、満足することにする。
それに、マイペースで浮世離れして見える遙がずっとまえから自分との将来を考えて動いていたことがわかって、充分すぎるほどだ。
胸の中に温かいものが満ちていくのを感じる。
愛情だ。
それが伝わればいいと思う。
「幸せにする」
そう凛が告げると、なぜか遙は戸惑ったような表情になった。
「……すでに幸せなんだが」
いつもの感情のこもらない声で遙は言った。
それを聞いて、凛はまた笑う。
「じゃあ、もっと幸せになろう」
すると。
「そうだな」
ふっと遙は表情をやわらげて返事をした。