愛すべき策謀家どの
シュラはさらに言う。
「天と地がひっくり返っても、ありえねーよ」
「じゃあ、僕がこういうことをするかもしれないと、ほんの少しでもその可能性があると、あなたは今まで、思ってましたか?」
無表情に近い厳しい顔つきで雪男は問いかけてきた。
その問いに、シュラは答えようとして、答えられなかった。
シュラが黙っていると、その代わりのように雪男が口を開いた。
「僕があなたを襲うかもしれないなんて、まったく思ってなかったんですね?」
問われて、シュラはまた答えずにいた。
答えなかったが、胸のうちで出した答えは、そのとおり、だ。
雪男は表情を変えないまま続ける。
「そんなこと、天と地がひっくり返ってもありえないと思ってたんですね?」
そのとおり、だ。
でも、なぜか、その答えを口に出せなかった。
「シュラさん」
雪男のシュラを見おろす眼差しが強くなった。
「あなたの中で、僕は一体いつまでビビリメガネのままなんですか?」
そう問いかけたあと、雪男はまた身体を近づけてきた。
「雪男!」
あせって、シュラは怒鳴る。
「ふざけてんじゃねーよ!」
「ふざけてなんかいない」
雪男はシュラの怒鳴り声すら吹き飛ばしてしまうぐらいの強い声で断言した。
シュラは少し息を呑み、雪男の顔を見あげる。
そんなシュラに雪男は告げる。
「僕は本気だ」
雪男は真剣な表情をしている。
恐いぐらいの真剣な表情だ。
「僕はあなたが好きだ」
そう告白した。
シュラは眼を大きくして、雪男をじっと見る。
嘘や冗談でないことは、はっきりわかる。冗談だろうと言うことすらできない様子だ。
雪男が身体を近づけてくる。
もう距離はほとんどない。
自分のものとは違う体温が迫ってきて、いやおうなく心臓は早く打ち、体温が上昇する。息苦しさを感じる。
キスされる。
そう思った。
けれども、寸前で、雪男は離れていった。
だが、まだ近くにいる。
雪男は言う。
「僕はあなたを傷つけたくない」
だから、寸前で、やめたのだろう。
「でも、あなたの中にいつまでたってもいる昔の僕を壊してしまいたい」
雪男の表情が少し揺れた。
「だけど、それをすれば、あなたを傷つけることになるんだろうな」
まるで、ひとりごとのように言った。
シュラは黙ったままでいる。
さすがに、ちゃんと考えないわけにはいかない。
雪男の言ったことは、ことごとく正しかった。
たしかにシュラの中にはビビリだったころの雪男がいる。眼のまえに、自分よりも背が高くなり、たくましくなった雪男がいても、銃勝負でシュラに負けて泣きべそをかいていた小さな雪男を頭によみがえらせてしまう。
あのころ、シュラはお姉さんぶって小さな雪男に接していた。
楽しかった。
小さな雪男のまえでは、完全に無邪気でいられた。
シュラにとっては大切な思い出だ。
だから、再会後も、大きくなった雪男を、祓魔師となった雪男を、それでもビビリだとからかい続けた。
あのころの雪男のままでいてほしかった。
大切な思い出を、壊されたくなかった。
壊されれば、傷つく。
「あなたを傷つけずに、あなたの中にいるビビリメガネの僕を壊す方法を、知りたい」
雪男は静かな声でそう告げると、シュラからさらに離れた。
去っていく。
シュラはなにも言わずにいる。
しばらくして、玄関の扉が閉められる音が聞こえてきた。
シュラは右腕をあげ、その手の甲を額に押しあてた。
それから、口を開く。
「……今度会うとき、どんな顔しろって言うんだよ」
思わず、そうつぶやいた。
外の陽ざしは厳しい。
祓魔塾の廊下の窓から何気なく外を見て、シュラはうんざりした気分になった。
夏は嫌いではなく、むしろ好きなのだが、それは明るく楽しい感じが好きなのであって、陽ざしの厳しさは歓迎できない。
ふと、前方からだれかが歩いてきた。
祓魔師の制服を着ている。
長身の青年。
雪男だ。
シュラは、いつも雪男と会ったときにするように笑う。
「よお、雪男」
軽く声をかけた。
シュラが歩いていき、雪男が歩いてくるので、距離はどんどん縮まった。
おたがい、立ち止まる。
「昨日、呑むのに付き合ってくれて、ありがとな」
シュラは明るく礼を言い、さらに続ける。
「だけど、呑みすぎたみたいで、途中から記憶がねーんだよな。朝、眼がさめたら自宅で寝てたんだが、おまえがつれて帰ってくれたんだろ?」
「……そう来ましたか」
雪男は穏やかな表情をしている。
「今回はこれで見逃して」
その腕が伸ばされる。
「あげません」
廊下の壁に押しつけられた。
あたりには自分たち以外だれもいない。
今のシュラは素面である。だから、手加減したうえで雪男に勝てるだろう。
だが、昨夜の記憶はある。
つまり、さっき雪男に言ったことは嘘なのだ。
昨夜のこと、嘘をついたこと、嘘だと雪男が見抜いているらしいこと、それらが合わさって、非常に気まずくて、動けない。
もちろん、不埒なことをするつもりなら、抵抗し、雪男に制裁を加えるつもりでいるが。
「長期戦にすることにしました」
雪男は長い腕をシュラの身体の両側に置く格好で、言う。
「あなたの中にいる昔の僕を壊さずに、上書きしていくことにしました」
この状態だと、雪男が自分よりも背が高くて身体が大きいことを意識せざるをえない。
「だから、覚悟しておいてくださいね」
さわやかな笑顔で、愛すべき策謀家は告げた。