メビウス/館京・お花見
「はあ…」
よいしょ、と手の中の風呂敷包みを抱え直す。
神保町の古書店街を訪れたのは初めてではなかったが、新しい分野の書物はそれぞれが目に新しく興味をそそり、思わずあれもこれもと求めてしまった。
結果、両手でなら何とか抱えられるほどの荷物を持つことになってしまったわけで。
「ちょっと、買いすぎちゃった、かな…」
いつもなら慣れて気にもならないはずの、腰の守り刀もずしりと重く感じられる。
とりあえず家へ帰ろうと、御茶ノ水の方向へ足を向けた。
古書店街を抜けて、ニコライ堂の丸屋根を眺めながら神田川を渡る。日が傾きだした空気に、川面が重苦しいような色を濃くしていた。
何日か前であれば、そこには一面に桜の花びらが降り注いでいただろう、とぼんやり眺める。
最早桜も終わった川辺の道は、それほど歩く人影もなく寂しげに見えた。
「…今年も、お花見に行けなかったなあ…」
初めて帝都に来た年。みんなで一緒に招魂社でお花見したいね――そんな風に話していた、友になれそうだった青年は、花が咲きそろう前に逝ってしまった。
その次の年。望外にも恋人となった愛しい人は、大切なお役目に忙殺され、半年の間まともに二人で会うこともままならなかった。
そして今年。共にいる時間こそあれ、自分と比して遥かに高い身分の人に、花見客でごった返す市井の桜を一緒に見に行きましょうとは遂に言い出せないまま。
気が付けば、あっさりと花は散り終わってしまっていた。
別に、どうしても花見に行きたかった、というわけではない。
ただ、考えてしまうのだ。
招魂社の見事な桜を、帝大の構内あちらこちらの桜を目にするたびに。
これをあの人と、並んで眺めることが出来たなら。
ああ綺麗ですね――そう言って、花の下で笑い合うことが出来たなら。
そうしたら、自分はどんなに幸せだろうかと。
「…欲深いな」
誰に向けるでもなく、ぽつりと自嘲の言葉が漏れる。
溜め息をついて、さあ家に向かおうともう一度荷物を抱え直した。
と。
腕一杯に抱え込んでいた重みが、不意に消える。
「…え?」
何が起こったか分からず、抱える形の腕はそのままに茫然と固まってしまう。
何も乗っていない手のひらの上を見つめて、二三度瞬きを繰り返した。
落とした?いや、地面には何もない。
慌てて周りを見回そうとした時、傍から声をかけられた。耳に馴染んだ、低く優しい響き。
「何が、欲深いのだ?」
「…館林様!?」
目の前に立つ、黒いマントと軍服に包まれた堂々とした体躯。
先程まで頭の中で想っていた姿と、声がすぐ傍に在る。その間近さに思わず目を見開いてしまった。
驚いた顔が余程おかしかったのか、館林がふっと顔を緩める。
「それほど目を丸くすることもなかろう。元々、今日は会う約束をしていたのだから」
「え、ええ、でも、ご公務では…」
「思ったよりも早く方が付いた。急いで屋敷に戻ってみれば、歩いて帰ったと聞かされてな」
「追いかけてきて、下さったのですか」
陸軍少佐であるばかりか、従三位の伯爵位を持つ方が。
天司様の信頼も厚く、国家の中枢を動かす存在でいらっしゃるこの方が。
一介の学生を、歩いて追いかけてきた?
「ああ。…大変だったぞ?お前がどの道を行ったのか分からず、多少術を使う羽目になった」
「そ、それは、大変申し訳なく…!」
「恐縮する必要はない。このような天気であれば、あちこち歩くのも気分の良いものだな」
確かに、館林は陽光の下でいかにも穏やかな顔をしている。
その手には風呂敷包みを抱えて――風呂敷包み?
「あ!も、申し訳ございません!館林様に荷物を持たせるなど――」
どうやら、館林が京一郎の荷物を手から取り上げたのが、包みが消えた顛末であったらしい。
京一郎が両手でどうにか運んでいたそれは、重たげではあったけれど館林の左手一本で抱えられていた。
「構わない。無駄足をさせた詫びだ」
「そのような――」
「随分と買いこんだな。全て書物か?」
「はい、大学で入り用なものを…」
「そうか。では、詫びのついでに下宿まで運ぼう」
「えっ!?」
そのようなことはさせられない、と困惑する京一郎に笑いかけながら、すでに館林は湯島の方角へ向けて歩き出している。
「いい陽気だ。このまま川べりを歩いて、昌平橋のあたりまで行ってみるか」
「いえ、でも、荷物が…」
「何ということもない。さあ」
そう言われてしまうと、さらに言葉を重ねて遠慮するのも躊躇われる。
申し訳ございません、と繰り返したくなる気持ちを飲み込んで、並んで川沿いの道を歩き出した。
作品名:メビウス/館京・お花見 作家名:aya