【ジンユノ】花びら一枚の記憶
風が吹く。花が舞う。その花びらの一枚一枚が、思い出せない記憶の欠片のような気がした。
こんなに急いで散る事はないのに――
同じ風が、僕の髪を散らす。鬱陶しいから少し切ったらと言われ続けた前髪が目にかかってくるけど、気にせず僕は桜を見上げぼんやりと歩いた。髪の毛を透かして見える景色はどこか遠くて、逆に僕はそれにほんの少し安堵する。
こんな世界。
あの子のいない世界。
どうしようもない寂寥感が粉々になって胸の奥で降り積もる。この世界で生きていて、多分僕は今も充分、それこそ贅沢なくらいに幸せでいるはずなのに、喪われたと判る記憶のせいで、どこか充足感を感じられない。
結局記憶の欠片だけ持っていても、僕はあの子に逢えずじまいで終わるんじゃないだろうか。
考えては駄目なのだという母の忠告も今は空しい。
無意味な塵へと還る事を知りながら、僕の目の前で花は競うように散り急ぐ。僕の記憶も、やっぱり無意味に終わるのか。そう思った時、また強い風が吹いて、沢山の花が散った。それを見上げて、何故か僕はあの子の泣き顔を連想した。まるで桜が泣いてるみたいだ。なんて悲しい光景だろう。
風の残滓が僕の髪をまた掃う。視界が若干クリアになって、頭上の桜から道へと目線を戻すと、吹きあげた風が鎮まった後の大気の中に幾つもの薄紅がゆっくりと漂い舞う、その先に、誰かいるのに初めて気付いた。
女の子だ。散る花を飽きず眺めているその横顔が、光射すような鮮やかさで僕の目に映る。
光は僕の内へも射した。
――あの子だ。
瞬間、息をするのを忘れた。
どうしてそう思ったのか、振り返って頭で考えてもまるで判らない。何故って、そこに佇む彼女はごく普通のどこにでもいる女子中学生でしかなかったのだ。黒髪で、僕と同じ中学の制服を着ていた。だけど、僕はそれを疑いもしなかった。あの子だ。何度も夢に見てきた、あの女の子!
頭の中で歓喜が鐘を打ち鳴らす。内から満ちる光の奔流が僕を呑みこみ思考を奪う。呼吸を思い出すまで僕は、身動ぎひとつできなかった。
息苦しさにやっと思い出して飲み込むように肺へ吸い込む呼吸が喉奥で変な音を立てる。同時に僕は、彼女へ向かって足を動かしていた。
早足気味に歩きだしてすぐ、学園の敷地が変則的に緩く内へカーブしていて、そこに沿った道も曲がって先が隠れていたと気付いた。誰もいなかったはずの道に突然あの子が現れたようにさえ見えたのはこの為の錯覚で、ある程度近づくまでちょうどあの子も隠れて見えなかったのだ。それが判る程度には回復した思考が、目の先にいる少女を目まぐるしく観察する。
先程までの僕と同じく頭上の桜を仰いでいる、けれど沈んでいた僕とは違い夢見るような面持ちの、口元には笑みさえ浮かべたその姿は明るく、桜吹雪に夢のように溶けあい映画のワンシーンのようだった。花枝に向かって一歩を踏み出す小柄な体が可憐に傾ぐ。降る花へさしのばされる手が舞う桜と踊るようにすべる。見ているだけで、近づくだけで、僕は心臓が早鐘を打つのを感じた。思考が追い付けない早さに制御不能な感情が、僕から飛び出して空に舞い上がってしまいそうだ。ああ、なんて、なんて。
なんて可愛らしい人なんだろう。
夢とは違い、あの鮮やかで不思議な色合いの印象的な髪の色じゃない。日本人ならありきたりな、染めてもいない黒。横顔ではっきりとは判らないけれどおそらくは瞳も。それでも春風にふんわり揺れる癖っ毛の、短いけれど可愛らしい髪型や、ふっくらした頬の丸みに面影が見て取れる気がした。
似てる? 似てない? でもそれさえも、大した意味がない。僕の瞳の奥で、彼女の姿に夢のあの子が重なって映った。その刹那。
「ユ……、ユノ……ハ……」
その名は身体の奥から転がすように口を衝いて出てきた。
「えっ」
桜に見入って僕に気付きもしてなかった彼女がきょとんとした声を出して僕へと振り向く。目が合った。合ってしまった。僕は頭に血が昇っておろおろと、続く言葉もまともにでてきやしない。
瞳はやっぱり緑じゃなかった。でも、不思議と落胆はなかった。近づいて見るそれは濁りなく澄んで、夢で見た瞳と同じ、とても綺麗だ。そんな感想が混乱する思考の渦の中で真っ先に浮かびあがる。それに続いて、たった今自分が何を口走ったのかと疑問が湧く。意識して声をかけた訳じゃない。でもほぼ同時に解った。それがあの夢の女の子の名前なのだ。
今までどうあがいても思い出せなかった、ずっと知りたかったあの子の名前――
でも、それはあくまで夢の話だ。目の前の女の子の、大きな黒目がちの瞳が不思議そうに瞬くのを見て、僕は見当違いな声をかけた自分に気付く。そうだ、この子にとっては僕は知らない他人でしかなく、あの名前だって今のそれではないと言うのに。
「あ……えっと……っ、その……」
どうしよう。声をかけてしまった以上無視はできない。今更する気もない。
彼女が僕を見ている。なんだろうと、そう思ってるに違いない。急に呼びとめたりして。しかも、ひょっとしたら知らない名で呼んだりして。きっと変に思われた。人違いだって、そう言おうか。けどホントは人違いなんかじゃない。僕は見つけた。君を見つけたんだ!
――でもそんな事いきなり言ったって、おかしいとか思われるだけだ。いや、待って。ひょっとしたら彼女だって僕の事、覚えててくれてるかも知れないじゃないか。でも、それを訊いて違ってたらますます僕は怪しい人物だ。そもそも、どもりながらおろおろしてる時点で充分すぎるほど怪しい。気持ち悪がられてるかも。ああ、どうしたらいい? 僕はただ、ただ彼女に近づきたいだけなのに、なんて切り出したらいいか、欠片も浮かんでこない!
作品名:【ジンユノ】花びら一枚の記憶 作家名:SORA