ライフゴーズオン
昼に逢いましょう
本能字学園の閉校及び本能町の閉鎖から間もなく、人工島だった本能町は東京湾に消えた。もちろん鬼龍院財閥により住人の移転完了後の作業であった。
当初は景色の中に欠落を覚えても、ひと月も経てば誰も気には留めなくなってしまう。その日も、街を行き交う人々は一人を除いて誰も本能町跡に目をやることもなかった。
「おー、本当に跡形なく消えちまったんだな」
スカジャンにTシャツ、ジーンズといったいでたちの少女は初夏の日差しにきらめく海面を眺めて呟いた。
纏流子は坂道を歩き、しばらく平らな道が続く街並みの途中に煉瓦造りの建物を見つけ、壁にもたれて人を待つことにした。
『流子ちゃん、帰ってきたらデートしよう!』
地球が布に覆われるか否かの決戦に赴く前、満艦飾マコと約束したデートの当日、それが今日であった。流子が地上に戻ってから大分経っていたが、本能字学園の閉校までの処理や本能町閉鎖、その他色々な事情のため日程が延期となって今に至る。本能町では満艦飾家に下宿していた流子も今では新築された纏邸にひとり暮らしである。
「この中の誰も、あの時のことは覚えちゃいないんだろうな」
何人もの人々が通り過ぎ、眺めるでもなく眺めていた流子はふとひとりごちた。父の死が発端で飛び込んだ戦いは母の自決で幕を閉じた。多くの人々は流子たちの戦いを知らない。服に操られ取り込まれている間に地球の存亡を左右する戦いがあったということを認識すらできていなかったというのが正しい。
短い期間の多くの出来事は、流子の心にいくつもの跡を刻み込んだ。何事もないかのように動いている世界と自分が乖離しているような気分に襲われることもあった。発作のように突然巻き起こる離人感にまた囚われ、街の喧騒が遠ざかり景色が色を失おうとしていた瞬間、流子の耳朶を陽気な声が打った。
「りゅー・うー・こー・ちゃーん!」
離れた場所から手を振るのは待ち人であった満艦飾マコ。白いカットソーに淡いピンクのキャミソール、上衣より少し濃い桃色のショートパンツと肩に掛けた紫色のウサギの形をしたバックパック。世界が色を失わずに済んだ、と流子が安堵する間もなくマコはぴょんぴょんと跳ねるように近づいてきて流子をきつく抱きしめた。
「流子ちゃん流子ちゃん流子ちゃーん! 久しぶりだよ会いたかったよー!」
「最後に会ってから一か月やそこらしか経ってないだろ」
「一か月も会ってないんだよ、もうマコ会いたくて会いたくてしょうがなかったよ」
「わーったわーった、とりあえず苦しいからちょっと離れろ」
言いながら何度もきつく自分を抱きしめてくるマコを流子はやっとの思いで引き剥がした。
「そういや姉さんは遅いな。待ち合わせ場所ちゃんと言ったよな」
流子の問いにマコはいけない、というように舌を出した。
「皐月様との待ち合わせ場所は向こうに見える坂上ったもう少し先でーす。流子ちゃんに言い忘れちゃった」
「あ? なんでそんなまだるっこしいことしてんだよ」
「待ち合わせだけでも楽しいでしょ? 楽しいことはいくつあってもいいんだよ。ほら行こうよ流子ちゃん」
マコに背中を押され、しぶしぶ流子は坂道を上りだした。
「マコ、新しい学校はどうだ? おじさんたち元気にしてるか?」
「学校ちゃんと行ってるよ! お弁当食べて授業中寝てるけど。父ちゃんも母ちゃんも又郎もガッツも元気だよ。歌舞伎町ってネオンいっぱいだから最初は闇医者ネオンが目立たないって父ちゃんぶーぶー言ってたけど、患者さんいっぱい来るから今はすっごくごきげんだよ」
「ああ、そうだろうな」
当初満艦飾家に用意された移転先が新宿歌舞伎町だと聞いて満艦飾家共々流子も驚き心配していた。しかしマコの話ではそれも杞憂だったようだ。一同の元気そうな顔を思い出し、流子の表情も少しずつ和らいでいった。
もう少しで坂を上りきる位置まで来た流子とマコは、坂の頂点にひとりの女性が立っているのを見つけた。白いシャツブラウスに淡い水色のスカート、革と帆布を組み合わせたトートバッグを肩にかけたその女性は鬼龍院皐月、のはずだったのだが。
「概ね時間通りだな。ん? どうしたお前たち」
卒業式の際には背中まで伸びていた皐月の黒髪は耳より下、肩に付かないほどの長さにバッサリと切られていた。
「あれあれ?」
「あれあれ?」
「おやおや?」
「おやおや?」
流子とマコは同じ動き同じセリフを繰り返しながら坂を上った。
「いつもとなんか違うけど、他に人がいないっていうことは?」
「確かにこれは皐月様!」
言うが早いか二人は皐月に駆け寄った。
「よう姉さん! 見違えたぜ別人かと思った」
「てゆーか皐月様髪の毛切っちゃったんですね! ロングの皐月様もきれーでしたけどショートの皐月様もきれーです! てゆーかかわいい!」
「か、かわいい?」
予想していなかった反応に皐月は珍しくたじろいだが、その間も流子とマコは皐月の周りをくるくる回っていた。
「おう、すっげー可愛いぜ姉さん。こうしちゃいられねえ、マコ、写真撮って」
「アイアイサー!」
まずはマコがカメラマンとなって流子と皐月をデジカメに収め、ついでバッグパックから三脚を取り出すとデジカメにセットした。
「私も! 私も流子ちゃんと皐月様と写るよ」
セルフタイマーがセッティングされたデジカメは連写モードにされたのか、連続して軽快なシャッター音を立てた。
「そんなに何枚も写真を撮らねばならないものなのか?」
「何言ってるんですか、デート記念アンド皐月様かわいい記念は何枚撮ってもいいんですよ!」
「だってよ。あれ、もしかして姉さん照れてんの?」
顔を赤らめた皐月に気付いて流子がからかうように笑うと、皐月は頬を染めたまま視線を明後日の方向に向けた。
「こういうことは初めてなのだ。なんというか、調子が外れる」
「諦めなよ、マコと一緒にいりゃ大概のことは調子が外れるさ」
「そうですよ、調子っていうのは外すものです! 歌うたう時は調子を外すとぬかみそが腐りますけど、人生の調子は外したところからが本番です!」
踊るような身振り手振りで答えるマコに皐月は破顔した。