♯ pre
5
夜、ハルカの部屋にリンが来ていた。
ハルカは体調がすっかり良くなったので学校にふたたび通うようになった。武術の鍛錬にも行っている。
リンと結婚の約束をしたことは、だれにも話していない。リンは公にしたいようだったが、ハルカが止めた。自分たちのような子供が将来結婚するつもりだと言ったところで、まわりからは微笑ましそうな眼で見られるたけだろう、と。そのハルカの冷静な指摘をリンは渋々といった様子で認めて周囲に言わないことを決めた。
しかし、リンはハルカとふたりきりになりたいらしく、けれどもハルカはたいていマコトと一緒に行動していて、そのあたりまえのことを断る理由を話せないので、リンはまた夜にハルカの家の壁をのぼって窓から部屋に入ってきた。
「今日は、いいもん持ってきた」
リンが得意げに言った。
ハルカは無表情を崩さず、ただリンを見る。
すると、リンは床に敷かれた絨毯の上に紙を広げた。
地図だ。
この国だけではなく他の国も、海の向こうの国々も描かれている。
ハルカたちの民族は知識を得ることを尊ぶ。
紙にしても、その製法が東方から伝わると、東方での紙の原料となる植物がほとんど無かったため、自分たちの地域にたくさんある他の植物を使用することを考え出し、さらに工場で大量生産するようになった。
紙の普及は知識の伝達を広がらせた。羊皮紙を使っていたころは一冊の本を作るために羊が何百頭も必要で、作る手間もかなりのものだった。
紙が羊皮紙に取って代わり、文書が容易に作られるようになり、軽いため伝書鳩で遠いところにまで情報を早く届けられるようにもなった。
また、羊皮紙に書かれた文字は水をしみこませた布で拭くと消せるのに対し、インクが細かな繊維のあいだに入りこむ紙に書いた字を消すのは難しいので、文書の改ざんの防止に役立った。
国の統治者の中には古今東西の文献を翻訳する機関を設立したり、何十万もの本を所蔵する図書館を設立する者もいた。
ハルカが生まれるより数百年もまえの図書館に、部屋がたくさんあり、テーマごとに書物箱が分類されていて、書物を探しやすいように目録も作られていた。
学問の旅に出る者も多い。
学問、商い、目的はそれぞれだが、旅を好む民族と言える。
星の動きを熟知し、砂漠を進み、海を渡る。航海術の発達も、海の向こうの国々よりも早かった。
海の向こうの、はるか北方の海賊とも商いをした。その海賊たちが銀貨を好んだからだ。
ハルカは冷静で、冒険心があまりない。将来、旅に出る予定だが、それは家業の関係である。自分はこの街を離れたいとは思っていない。この街で、泳げるときに泳いでいたい。
それでも、こうして地図を見ると、心がほんの少しだけだが浮き立った。
隣に座っているリンが眼を輝かせて地図を見ていて、明らかにわくわくしていて、その気分が移ってしまったのかもしれない。
「まず、どこの国に行くかだな」
未来の話をリンは楽しげに明るい声でする。
リンは地図上の海の向こうの国に、ピンと伸ばした指の先を置いた。
「この国とか、どうだ」
そう提案したあと、リンは指さした国の政治が安定していることや特産品などについて淀みなく活き活きと語った。さらに、その近隣の国々についても話した。
「……詳しいな」
「宮殿にいたころ、教えられた」
つい感心してそれを口にしたハルカに対し、さらっとリンは返事をした。
王族としては他国についても詳しく知っておかなければならないのだろう。宮殿で、その教育がリンにされていたということだ。
「……言葉の問題があるな」
少し話をそらしたくなって、ハルカは言った。
すると。
「ああ、俺、この辺の国の言葉なら読むのも書くのも喋るのもできるから大丈夫だ」
あっさりとリンは応えた。
「……それも宮殿で教わったのか?」
「ああ」
たしかに、王族として異国の言語を教えられるのは当然のことだろう。
だが、リンの事も無げな様子が引っかかった。教えられて、簡単に身につくものなのだろうか?
「でも、俺ができるからって、全部、俺まかせにするつもりでいるなよ。おまえもちゃんと学べよ」
リンに釘を刺された。
けれども、ハルカは返事せずにいた。異国の言語は自分とは相性が悪い気がする。
「学ぶって言えばさ、俺、法官の資格を取ろうかと思ってるんだ」
「は?」
思わずハルカは短く声をあげ、まじまじとリンの顔を見た。
法官とは法律に基づき調停する役割の者のことだ。道を譲らなかったことが原因で言い争いになったのを法官が仲裁に入って和解させたという事例があるぐらい、法官は日常生活に近い存在でもあるし、その発言力は強い。法官になるためには法律に精通していなければならず、難しい試験に合格して資格を得る。
「商売上、なんかもめ事があったとき、法官の資格持ってるヤツがそばにいたらいいだろ」
「それはそうだけど……」
「まえから法律の勉強はしっかりやってるし、なんとかなると思うんだ」
まえから、というのは宮殿にいたころから、ということに違いない。
王族として法律についてしっかり教育される。それも、また、当然のことのように感じる。
しかし、それで法官の試験に合格できるぐらいになるかは、本人の資質の問題だろう。
ハルカはふと思い出した。
リンは算術が得意だ。学校で算術の問題を出されて、どんな問題もすらすら解いてしまうので、先生は高等教育の問題をリンに出した。すると、リンは少し考えたあとに解答した。そしてその解答は正解で、先生を驚かせた。
難しい問題を解いてもリンはいつもと変わらず、屈託無く笑い、お調子者のようによく喋る。
だから、まわりから距離を置くほどの特別視をされるてはいない。
ハルカにしても今まで特にこのことについて意識したことはなかった。
「そうだ、商いの旅っていえば、病気とかケガとかあるかもしれねえだろ。医術の知識もあったほうがいいよな」
どう見てもリンは本気だ。本気で医術の知識を習得するつもりだろう。そして、いつか本当に習得しそうだ。
「おまえ、頭、おかしい」
「なんだと!?」
ハルカの感想に対し、リンは声を荒げた。
「俺の頭はおかしくなんかねーよ!」
どうやら悪いほうに誤解しているようだ。
標準からかけ離れて頭が良いという意味でハルカは言ったのだが、面倒なので、リンの誤解を放置することにした。
ハルカがリンの文句を聞き流していると、リンはむっとした表情で黙り込んだ。
それでもハルカは無言のままでいた。
「……俺、機嫌が悪いんだけど」
根負けしたようにリンが言った。
機嫌が悪い。そんなの、言われなくてもわかっている。
「機嫌が悪いまま、ケンカ別れみたいな感じで、俺が帰ってもいいのかよ?」
好きにすればいい。そう突き放しそうになって、しかし、寸前でやめた。
ハルカは少し考える。
それから、口を開く。
リンの顔をじっと見て、言う。
「綺麗だ」
「はあ!?」
リンは眼を大きく開いた。
「なんだんだよ、それ! なんだんだよ、いったい!?」
「綺麗だと言われたら嬉しいものなんだろう?」
「それは男から女の場合! 女から男の場合は違うんだよ!」
「そういうものなのか?」
「少なくとも俺は違う」
よくわからないな。そう思い、ハルカは小首をかしげた。