♯ pre
どうやら自分はリンから結婚を申し込まれているようだ。
リンと結婚。
考えてもみなかったことだ。
ハルカは横を向いているリンの顔を眺める。
リンは気まずそう、というより、恥ずかしそうな顔をしている。
だから、つい。
あ、まずい。そう思ったものの、抑えるのが間に合わなくて、ハルカはほんの少し笑った。軽くだが吹き出した音は、近くにいるリンの耳には入っただろう。
「……なに、笑ってんだよ」
むっとした表情でリンがハルカを見た。
その表情が、また、おかしく感じる。しかし、今度は吹き出さないでいる。
リンは黙っている。なんだか、くやしそうだ。
結婚を申し込んで笑われたのが嫌だったのだろうか。格好良く結婚を申し込めなかったのが嫌だったのかもしれない。
リンは不機嫌そうな顔をハルカに向けて、口を開く。
「返事は今すぐじゃなくていい。だいたい今すぐできることじゃねえし。何年か後になる話だ。だから、考えておいて」
「別に、かまわない」
ハルカはリンの言葉をさえぎって、言った。
リンは顔に戸惑いの表情を浮かべた。
「は?」
「だから、おまえが言った意味で、いつか、おまえと一緒に見たことのない景色を見に行ってもいいと言っている」
無表情のまま、ハルカはしっかりと答えた。
リンの表情が揺れる。
「それって」
ぼうぜんとした様子ながら、リンは聞いてくる。
「俺と結婚して、一緒に旅に出ていいってことか?」
だから、ハルカはやはり無表情のまま、うなずいた。
正直なところ、自分でも、この流れは不思議だ。
リンと初めて会ったとき、反撥した。それからも、リンに反撥を感じることが何度もあった。
それなのに、今、リンに結婚を申し込まれて、どうして自分は承諾したのだろう。
突然で、予想外で、混乱しているわけでもない。結婚話に舞い上がっているわけでもない。
ただ。
結婚の申し込みだとわかったうえで、リンと一緒に旅をすることを想像してみた。
リンはきっと、それまで見たことのなかった景色を見て感動するだろう。眼を輝かせ、笑うだろう。
そのときリンと一緒にいたら、おそらく、自分の眼にはそれまで仕事先でしかなかった風景があざやかに色づいて見えるだろう。
そんな気がした。
「じゃあ」
リンは神妙な顔つきで、手をハルカのほうへ近づけてきた。
そして、ハルカの手をつかまえ、握った。
「約束」
そう告げたあと、リンは顔を近づけてきた。
あ、とハルカが思った次の瞬間には、唇にやわらかなものが触れてきた。
キスだ。
初めての。
けれども、それは短かった。すぐにリンは離れていった。握られていた手も放される。
リンは横を向き、眼を伏せている。かなり照れくさそうな様子だ。
こちらのほうを見ていなくて良かったとハルカは思いつつ、眼を伏せた。
キスされて、自分の心が浮き上がったように感じた。妙な感覚だ。さらにそのあと身体が熱くなった。どうかしている。
今も心臓がいつもよりも早く打っている。
自分は動揺している。それを認めざるをえない。
だから、今の自分がどんな表情をしているのかわからない。たぶん、無表情ではないだろう。リンがこちらを向いていなくて良かった。
でも。
嫌じゃなかった。
唇にさっきの感触がよみがえってきて、そう思った。本当に今の自分はどうかしている。
おたがい相手を見ず、どちらも無言のまま、時が過ぎていく。
しばらくして、心が落ち着いてきた。
リンも同じだったようだ。
「なあ」
声をかけてきた。
ハルカはリンを見る。
リンはなにも言わず、左手を近づけてきた。
ハルカの右手をつかみ、少し上へと持ちあげた。
リンの眼がそのハルカの右手の甲へ向けられる。
「何年か後の結婚式、ここに、また、あの花の紋様を描いてきてほしい」
また、花の紋様。
ああ祭のときに母が描いてくれたものもことだなとハルカは思い出し、言う。
「おまえ、よっぽどあれが気に入ったんだな」
祭のときもリンは綺麗だと言って褒めていた。母が描いてくれたものを褒められて悪い気はしないので、からかったつもりはなかった。
それなのに、リンは眼を大きくし、それから不満そうな表情になった。
「そうじゃねえよ!」
声をあげる。
「あれは、あのときのおまえが綺麗だって言ったんだよ!」
ヤケクソのように言ったあと、リンは口を引き結んだ。
ハルカは無表情を崩さないでいる。
リンに説明されて、ああ、そういうことだったのか、と納得した。
「……嬉しいとかねーのかよ」
少しして、ボソッとリンがひとりごとのように言った。
ハルカは考える。嬉しい、それはない。だが、今のリンを可愛いと感じる。自分よりも身体の大きい少年なのに。
なんだか、つかまれている手を握り返したくなって、しかし自分らしくないと思い、気持ちを抑えた。
「……じゃあ、帰る」
やや低めの声でリンは告げた。
そうか、とハルカは思う。夜はかなり更けている。帰るのが妥当な時刻だ。
リンはハルカの右手を放した。
それから、踵を返し、窓のほうへ歩き出す。
ハルカもリンがこの部屋から出たあとに窓を閉めなければいけないので、リンについていく。
窓のすぐ近くまで進むと、リンはハルカを振り返った。
ハルカはリンの顔を見る。
近づいてくる。
リンがなにをするつもりなのか予想できたが、ハルカは動かないでいた。
二度目のキス。
やっぱり、嫌じゃない。
心臓が鳴った。
「じゃあな!」
キスのあと、ふたたび窓のほうを向きながらリンは別れの挨拶をして、慌てた様子で窓の外へと出て行った。
ハルカは窓へと近づき、下にいるはずのリンを見ようとして、やめた。
心がまだ落ち着かない。
しばらくしてから、窓の外を見た。
リンが道を走っていく姿が見えた。元気良さそうだ。
その姿を見て安心し、ハルカは窓を閉めた。