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「王が病に倒れられたらしい。容体はかなり悪いそうだ」
リンの様子がいつもと違う理由がわかった。祖父が病気なのだ。深刻な様子になって当然だ。
それに、リンの祖父は国王だ。その生命の危機は国の状態をも変える可能性がある。
リンの家の使用人がなにも話せないと答えたのも、うなずける。
「だから」
リンが話を続ける。
「俺は王都に、宮殿に帰る」
身内の病床に駆けつけるのは当然のことだろう。
そう思ったハルカに、リンはさらに告げる。
「この街にはもどらない」
え。
ハルカは戸惑った。
告げられたことを、一瞬、理解できなかった。
予想外だった。
いや、本当はある程度予想していた。王宮からの使いがリンの家を訪ねたと聞いたときに、リンを連れもどしに来たのではないかという考えが頭に浮かんだ。しかし、祖父が病気で、病床に駆けつけるだけだと思って、その予想を打ち消したばかりだった。
「王は御身の状態をよくわかっていらっしゃるようで、退位されるそうだ」
よほどの重体なのだろう。
今の自分には国王としての責任を果たせないと判断したのだろう。
「王は次の王を指名した」
ハルカは息をのんで、リンの話を聞く。
これは身近にいる者の家族の話では収まらない。国の命運にかかわる話だ。
「第二王子に継がせるよう指示されたそうだ」
王が後継者として指名したのは、第二王子、リンの父親だ。
「それと、もうひとつ」
リンは乾いた声で言う。
「王太子は俺にしろ、ってさ」
王は王太子としてリンを指名したということ。
これまで次の王についての争いが起き、それが原因となったと思われる死者も出た。だから、王は先の先のことまで決めておこうとしたのかもしれない。
でも。
選ばれたのが、リンだなんて。
冷静に考えれば、その判断は妥当のように感じる。リンは非常に頭が良い。だが、それをおごることはない。学校で人気者になるぐらい魅力があり、行動力も統率力もある。身体を鍛えていて、武術においても秀でている。
他の王族についてはよく知らないので、他と比べて、ということではないが、リンは指名されるのにふさわしい要素を持っていると思う。
けれど。
リンが次の次の王となる。
遠くなる。
「親父とふたりきりで話をした」
近所の少年と変わらない呼び方でリンは父親を呼ぶ。その父親は第二王子で、次の王だ。
「親父は宮殿にいたころ、王都から出て行くことを頭に思い描いていたらしい。海のある街で自由に暮らすことを夢見ていたそうだ。そんなこと、初めて聞いた」
この街に引っ越してきたのは、第一王子の妻と第三王子の長男の死についての疑いの眼をそらすためではなかったようだ。
「でも、王に自分が指名されたと聞いて、その指名を受ける覚悟を決めたって言った。これからの自分の夢は、国王としてこの国をより良くすることだって、言った」
リンの表情が揺れた。
「だから、おまえも、これからは自分と同じように国をより良くすることを夢としてほしいって、言われた」
でも。
そう思うと同時にハルカは口を開いていた。
「おまえの夢は、商人になって、商いの旅に出て、いろんな国に行って、見たことのない景色を見ることだろう……!?」
言ってから、しまった、と思った。
言うべきではないことを言ってしまった。言うべきではない、そう判断するよりまえに口が動いていたのだ。いつもの冷静さを失っていた。自分の中で感情が湧きあがって、大きくうねって、自分の外へと飛び出していってしまった。
リンの表情がまた揺れた。
その顔がゆがむ。苦しそうに。
リンは眼を伏せた。
しかし、少しして、その眼はあげられ、ハルカに向けられる。
リンはハルカを見て、告げる。
「ごめん」
つらそうな顔をしている。
「約束、破ることになった」
それは。
つまり。
将来、ハルカと一緒に商いの旅に出ないということ。ふたりで見たことのない景色を見に行かないということ。結婚もしないといこと。
ハルカは視線を落とした。
約束、なんて。
突然リンが言ってきて、自分としては特にそうしたいと思っていたわけではなく、それでもかまわないかと思って受けただけだ。
だいたい、子供同士の口約束だ。
こうしたことが起こらなくても、時が過ぎれば、気が変わって、約束を取り消したかもしれない。自然に、約束は無くなっていったかもしれない。
リンは重大なことのような顔をして謝ったが、たいしたことじゃない。
そう思う、のに。
胸が痛い。どうしてだろう。胸が痛い。
ふと。
リンが距離を詰めてきた。
だから、ハルカは顔をあげた。
眼が合う。
リンはハルカをじっと見ている。
整った顔にあるのは、真剣な表情。
その手があげられる。
ハルカの頬に触れる。
自分のものとは違う肌の感触、体温。
「ハルカ」
大切なものに触れるように、その手のひらが頬をなでる。
「好きだ」
でも、どうにもならないんだろう?
そう強く思った。
けれども、今度は口に出さなかった。
言ったって、どうしようもない。責めるようなことは言いたくない。自分を抑えることができて良かったと思う。
リンは二回目に会ったとき、王都よりこの街のほうが好きだと言った。ついさっき破棄されることになった約束をするまえに、この街は過ごしやすくて自由だとも言った。どちらのときも嘘をついているようには見えなかった。
これまでリンは宮殿の話をするのを避けていた。
リンの妹のゴウはこの街に来たばかりのころは王宮での経験のせいで気持ちが内向きになっていたという。
それでもリンは宮殿に帰ると言った。
麗しの都の、その中でもひときわ素晴らしい、壮麗で、しかし中は血まみれの監獄のような宮殿に、王太子として帰ると決めたのだ。
自分には、なにも言えない。
リンが顔を近づけてきた。
だが、すっと離れていった。手も、おろされる。
キスをするのかと思った。でも、リンはしなかった。
約束を破ることになったからだろう。
リンは踵を返した。
窓のほうへ進んでいく。
少し遅れて、ハルカも歩き出した。
リンが窓のすぐそばまで行った。
そして、ハルカを振り返った。
ハルカは立ち止まって、リンの顔を見る。
リンは口を開いた。けれども、それは少し開いただけで、なにも言わないまま、閉じられた。
その顔がゆがむ。
泣きそうな顔をしている。
ハルカは胸をつかれたように感じて、思わず眼を見張った。
直後、リンはなにかを振り切るように顔をそむけ、ふたたび窓のほうを向いた。
リンが窓から部屋の外へと出て行く。
だから、ハルカは窓の近くに行った。
しかし、窓は閉めずにいる。
けれども、窓の外を見ない。
眼を閉じて立ち、時が過ぎるのを待った。
もうリンは道へと降りただろう。もう自分の家に向かって走り出しただろう。そう判断してから、ハルカは窓を閉めた。
それから、部屋の中のほうを向いた。
ふいに、思い出した。
地図。
昨夜、リンが持ってきた地図。
あれは、もらった物ではない。だから、返さなければいけないと思った。
急いでハルカは地図の置いてある場所に行った。
地図のほうへ手をやる。
触れる直前、ハルカの手が震えた。
驚いた。とっさに、もう片方の手で震えた手を抑える。
頭によみがえっていた。
作品名:♯ pre 作家名:hujio