♯ pre
2
翌日、リンは宣言したとおり、やって来た。
いや、ハルカたちが海へ行ったときには、リンはすでに来ていて海の中にいた。
リンは浜辺にハルカたちがいるのに気づくと嬉しそうに笑った。それから浜辺へと泳いできた。
そのあいだにハルカたちは着ている者を砂浜へ脱ぎ捨ていった。
「よっ」
近づいてきたリンが、明るく、軽く、声をかけてきた。
本当にコイツは王族なのだろうか。そんな疑問がハルカの頭をよぎったほどの気安い様子である。
これまで王族がこんなに近くにいたことがなかったので、もしかするとこれが一般的な王族なのかもしれないが、これではマコトやナギサと変わらない。王族とはもっとえらそうなのかと思っていた。
そんなリンに対して、マコトは優しい微笑みを、ナギサは無邪気そのものの輝くような笑顔を返した。
ハルカは無表情のままである。
「なあ、昨日も気になったんだが」
リンはハルカを見て言う。
「なんで、おまえ、上、脱がないんだ?」
その眼はハルカの上半身に向けられている。
今、ハルカは昨日と同じく、泳ぐために着ている物を脱ぎ捨てて、肌着の白い上衣と下衣という格好である。
しかし、リンやマコトやナギサは上衣は着ておらず、下衣のみだ。彼らは上半身裸である。泳ぐのなら、水をより感じたいなら、そのほうがいい。
「だって」
ナギサが話に入ってきた。
「ハルちゃん、女の子だもん」
朗らかにリンに告げた。
「えっ」
リンは綺麗な二重の走る眼を大きく開いた。
「コイツが女!? 胸、真っ平らじゃないかよ!」
衝撃の走る顔がハルカに向けられている。その眼は、ハルカの上衣の、そう、胸のあたりを見ている。信じられない、という様子だ。
なんだろう。
この。
ーーーーー胸のムカつきは!
そう思った瞬間、ハルカの身体は動いていた。
ほどよく筋肉のついた腕を迅速に伸ばし、その先にある硬く握った拳でリンを急襲する。
だが、紙一枚のところでかわされた。
え、とハルカはほんの一瞬戸惑ったものの、すぐに体勢を立て直すとともに次の攻撃に移る。
しかし、その攻撃は完全に読まれていたらしく、ハルカの手首がリンにつかまれた。
「……どうして」
低くハルカはつぶやいた。
「そりゃ、殴られたくないからな」
リンはハルカの攻撃を止めたまま、あっけらかんとした様子で答えた。
「そうじゃなくて、ハルはどうして自分の攻撃が止められたのか知りたいんだよ」
マコトが穏やかな口調で言った。無口で喋っても言葉数の少ないハルカの気持ちを、この世話好きの幼なじみはちゃんと感じ取り、まわりに説明することもしばしばだ。
「僕もだけど、ハルは幼いころから武術を学んでいるんだ」
ハルカは商家の娘で、両親は隊商を組んで遠方まで出かけることもある。そうした旅に危険はつきもので、もちろん用心棒を雇ったりもするが、自分も強いほうがいい。ハルカはいずれ両親のように商いの旅に出ることを考え、武術を身につけている。
「ハルは強いよ。お世辞とかじゃなくて。先生も才能あるって言ってる」
まだ子供だと言われる年齢だが、そろそろ体格など男女差が出てきている。
単純な力勝負なら、少女のハルカは同い年の少年や、年下のナギサにも、もう勝てないかもしれない。
それをハルカは技のキレなどで補っている。
力の強さではかなわなくても、ハルカは女子としては力が強いほうであり、その攻撃が当たれば相手にダメージを与えることができる。
当たれば、だが。
リンには、紙一枚のところとはいえ、かわされ、さらに、止められてしまった。
「ああ」
リンの表情が変わった。
「俺も武芸を学んでる」
その眼がすっとだれもいないところへと向けられた。気まずそうな表情。
「かなり真面目にやってる」
リンはつかんでいたハルカの手首を解放した。
「真面目にやらないと、強くならないと、あぶないんだ」
歯切れの悪い言葉。
なにが、あぶないのか。
ぼかされた肝心な部分。
だが、想像できた。
王族は、第三王子の長男が転落死し、第一王子の妻が毒殺された。
第二王子の息子が身の危険を感じて当然だ。
ハルカの場合はいつか出るかもしれない商いの旅での発生するかもしれない危険だが、リンは王都で現実的に危険を肌の近くに感じていたのだろう。真剣に、強くなろうとしてきたのだろう。
「リンちゃんって王子様なんだよね」
ナギサが明るく言った。いつものように遠慮がない。しかし、だからこそ救われるときがある。どう触れたらいいのかわからない腫れ物みたいな微妙な空気が無くなった。
「僕、王都に行ったことなくって、だからもちろん宮殿も見たことないんだけど、やっぱり、すごいんだよね?」
わくわくした様子だ。リンに向けたナギサの眼は好奇心できらめいている。
王都。
薔薇の花薫る麗しの都。そう謳われている。
その街に、ハルカはナギサ同様、行ったことがない。
リンはナギサを見た。
「ああ」
声の調子がさっきまでと変わった。明るさを取りもどしている。
「だけど、俺はこの街のほうが好きだ」
その視線はナギサからマコトへ、そしてハルカへと走った。
「だって、この街には海がある。俺は泳ぐのが好きだからな!」
リンは笑った。
まわりも明るくなるような笑顔だ。
その笑顔を静かな瞳で見て、少ししてから、ハルカは口を開いた。
「じゃあ、泳ごう」
リンに言った。
そんなハルカを、マコトが意外そうな表情で見ている。
「ああ、そうだな」
嬉しそうにリンが応えた。
コイツは本当にバカみたいに笑う。そう思いながら、ハルカは海へと歩き始めた。