♯ pre
もしマコトとナギサがハルカたちよりうしろにいるなら、そのうちここにやってくるはずだ。
ハルカはリンにうなずいて見せた。
それから、眼につきやすいように、噴水のそばまで行く。
ハルカとリンは待った。
けれども、マコトとナギサはやってこない。
もしかすると、マコトとナギサは自分たちよりまえにいて、ここはもう通り過ぎたあとなのかもしれない。あるいは、なにかの拍子に自分たちとは違う流れに行ってしまったのかもしれない。
「おい」
リンの声がした。
「なに水遊びしてんだよ」
ハルカの手は噴水の水盤の水の中にある。無意識のうちに手を水につけていた。さらに、その水を軽く跳ね上げたりしていたのだった。
「おまえ、本当に水が好きだな」
リンのほうを見ると、あきれたような顔をしていた。
ハルカは水盤から手を引き上げた。
「おまえもそうだろう。おまえに言われたくない」
「たしかに俺も水が好きだが、おまえほどじゃねーよ」
この街での暮らしが長くなるにつれ、リンの言葉遣いはどんどんくだけたものになってきている。
その眼が、ふと、噴水のほうに向けられる。
つられるようにハルカも噴水を見た。
高い位置から水が明かりを受けて光をまといながら流れ落ちている。
「……宮殿には中庭が四つある」
ハルカはふたたびリンを見た。リンはハルカを見ていない。噴水を見ている。
「それぞれの中庭には貯水池があったり、噴水があったりする」
そのリンの話を聞きながら、ハルカは驚いていた。
リンが自分から宮殿の話をするのは、これが初めてだ。だれかに聞かれれば、気さくに答える。だが、長引かせない。リンが宮殿の話を避けているのを感じていた。
「二つの中庭に噴水がある。俺は後宮の近くにある中庭の噴水が好きだった」
リンは淡々と話している。その顔に表情は無い。
「昼の明るい中で見るのも好きだったが、夜に見るほうが好きだった。庭には草木が植えられ、星の暦に合わせて花が咲く。水盤は雪花石膏でできている」
きっと、その噴水は、いま眼のまえにある噴水とは比べ物にならないほど見事な物なのだろう。
「満月の夜、薔薇の花の咲くころに見たときは、薔薇が静かに薫る中、夜空を映した白い水盤に、噴き上げられた水が月の光を浴びてきらめきながら落ちていった」
ふと、リンの表情がやわらいだ。
「夢みたいに綺麗だった」
その眼がハルカに向けられた。
厳しくはない、けれども笑ってはいない眼。
ハルカはリンの顔をじっと見る。
「宮殿に帰りたくなったか？」
いつのまにかそう問いかけていて、言い終わってすぐ、後悔した。
相手がいつも避けていることに踏み込んでしまった。
返ってきたのは、沈黙。
リンはすっとハルカから眼をそらした。
その口が開かれる。
「宮殿で親族が次々に亡くなった。おじや、いとこたちが、肉親を失って泣くのを見た」
息子を亡くし、兄を亡くし、あるいは、妻を亡くし、母を亡くし。
深い悲しみがあったのだろう。
「次に狙われるのは俺かもしれないのは、怖かった。だが、それよりも、俺のおじから息子や妻を、いとこから兄や母を奪ったのが、俺の身内かもしれないほうが、怖い」
あ、とハルカは思った。
第一王子は妻を失い、第三王子は長男を失っている。
しかし、リンの父親である第二王子は肉親を失っていない。
この街の者たちは、第二王子とその家族がこの街へ引っ越してきたのは次期王位争いからの離脱の意思表示だろうと考えている。
だが、違うのかもしれない。
疑いの眼をそらすために、この街へ一時的にやってきたのかもしれない。
「絶対にそんなことはないって信じてる。でも、もし指示したのが……！」
リンは苦しそうに顔をゆがめ、言葉を途切らせた。その手は拳に強く握られている。
言わなかった、その先。
ハルカには想像できた。
殺害を指示したのが自分の父親の可能性もあるとリンは見ているのだろう。
本当はほんの少しも疑いたくないだろうに。
それに、殺害を指示したのが自分の父親でなくても、自分の父親を支援する者が勝手にやったことであったとしても、リンにはつらいことだろう。
ハルカは手を動かした。
その手をリンのほうへやる。
強く握られたリンの右のほうの拳に、そっと自分の手のひらを寄せた。
リンが驚いた様子でハルカを見た。
ハルカは無言のまま、もう片方の手のひらもリンの右の拳に寄せる。
リンの拳を、両方の手のひらで包む。
ハルカの両の手のひらのあいだで、リンの硬く握られていた拳が解かれていく。
「ハル」
「おまえらしくない」
いつもの無表情、冷静な声で、ハルカは言う。
「おまえは、いつものように、バカみたいに笑っていたらいい」
すると、リンは一瞬眼を丸くし、それから、形良い眉を鋭くした。
「いつもの俺はバカだと……？」
「バカとは言ってない。バカみたい、だ」
「似たようなもんだろ！」
噛みつくようにリンが言い返してきた。
その様子が、なんだか、おかしくて。
つい。
ハルカは笑った。
リンは黙っている。ただハルカを見ている。ハルカはめったに笑わないので、めずらしいことが起きた今、リンは反応に困っているのかもしれない。
ハルカはリンの視線を避けるように顔の向きを変えた。
そして、ふと思い出して、リンの右手へとやっていた両手を自分のほうへもどそうとした。
手がリンの右手から離れる。
けれども、リンの右手が追ってきて、ハルカの右手をつかまえた。
ハルカはリンの顔を見る。
リンもハルカを見ている。なにも言わない。
どうしたのだろうか。
どうしてリンは手をつかんでいるのだろうか。
「リン？」
問うように名を呼んだ。
リンはハッとした表情になり、それから、その表情を顔から消して、ハルカの手を見た。
この状況はなんなのだろうか。リンが手をつかんでいる理由はなんなのだろうか。
自分の手になにかあるのだろうか。ハルカは考え、思い当たった。
「それは昨日、母さんが描いた」
リンにつかまえられている右手の甲を見ながら、ハルカは説明する。
「明日は祭だから、たまには女の子らしいことをするのもいいだろうって」
ハルカの指先から肘のあたりまで花の紋様が描かれている。乾燥した地に生える低木の葉を染料にしていて、十日ほど過ぎれば肌から消える。
祭や結婚式など特別なときによくされる、女性のお洒落だ。
「ハル」
名前を呼ばれたので、ハルカは右手の甲へとやっていた眼をリンの顔のほうへ向ける。
リンの視線とぶつかった。
リンは妙に真剣な顔をして、黙っている。
呼びかけてきたくせに、なにも言わない。
どういうことなのか。
ハルカはリンの眼をじっと見る。
リンがハルカの手を取り、お互い無言で、見つめ合って立っている。
近くにひとは多くいるが、そのにぎやかな話し声は遠くに聞こえる。
噴水は、相変わらず、その身に明かりの光をまとって流れている。
少しして、リンが口を開いた。
「綺麗だ」
真っ直ぐにハルカを見て、言った。
その言葉を耳が受け止め、一瞬あとに頭が意味を考え始める。
ハルカの頭が答えを出した。
どうやらリンはハルカの手に描かれた花の紋様が気に入ったらしい。だから、それを褒めたのだろう。
「母さんは器用なんだ」
母の描いた紋様が褒められて、悪い気はしない。