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ツタエタイ/ツタエラレナイ

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 荒北の荒い呼吸が響いてくる。自分も同じように息が上がっている。タイヤが接触するほど近くに追い上げる。それに気づいた荒北が、ペースを上げて引き離した。背中が少し遠くなる。足に力を入れて追いついた。
 右が少し空いていたのでタイヤを突っ込もうと速度を上げたが、再びそれに気づいた荒北がドリンクを飲みながら右を締めた。
 さすが。
 新開は背中のポケットから固形の補給食を取り出して一口かじる。
 左から抜けない。新開の抱える問題はそれだ。レースで左から飛び出してきたウサギをひいてしまって以来、走れなくなった。
 仲間の支えで何とか走れるようになったが、左から抜こうとするとブレーキを思わずかけてしまう。
 ――ならば右から抜けばいい。
 解決策は拍子抜けするほどあっさりと目の前に転がってきた。だが、本当にそれを貫くのは並大抵のことでは出来ない。
 だから、こうした実戦形式でなければ、練習にもならない。荒北は挑発的に右と左にスペースを作る。新開の前を塞ぐ高い壁のように、あるいは荒北の走るそこから真横に引かれた一線と言えばいいのか。これを越えて見せろと、彼の走りが語りかけてくる。
 荒北の左から近づく。もう少し、もうちょっと回転数を上げれば、さっと抜けてしまいそうだ。頭では判っている。なのに、何かが飛び出してきそうな悪い予感がありもしない幻覚を見せて、手が勝手にブレーキを握る。
 自分のことなのに、自らの力で内から排除することすら出来ない。
 息づかいが聞こえるほど近づいた背中がす、と遠ざかった。風を切る音が耳元でびょうびょうと鳴ってうるさいのに。自分の息づかいだって、いっそ耳障りだと思えるほどなのに、荒北のそれが聞こえるってのも不思議だ。距離が空けば、はっきり一人分の音が欠ける。
 山を下って遠くに町並みが見えてくる。あっという間に家並みを通り抜けた。頬を流れ落ちる汗がうっとおしい。手のひらで顔を拭って、汗を払い落とした。
 まだだ。
 ペダルを踏む足に力を入れる。左がダメなら、右から抜けばいい。車体を右に振る。荒北は当然それを察して、右を閉めてくる。ならば、こちらは相手に隙が出来るまで、何度でも左右に揺さぶるまでだ。必ず右から抜いてみせる。
 それに、諦めるなんて荒北は絶対に許してくれないだろう。
「チンタラ走ってんじゃねーよ、新開!」
「そんなつもりはないよ」
 新開の答えが引き金になったように、二人で同時にダンシングを始める。自転車のスピードが上がり、耳元を流れる風の音が大きくなる。三島の町へ飛び込むように坂道を下った。



「靖友、寄ってかないか?」
 夕暮れに沈む道路を国道一号から箱根新道へ移り、川沿いの道を走った。とある角で止まって後ろを走っていた荒北に尋ねる。
「あ?」
 荒北が新開が指す指の先にある看板を読む。『日帰り温泉』の文字。箱根の良いところは、至る所に温泉施設があるところだ。一見高級そうな温泉旅館でも、ふらりと立ち寄って温泉だけ入ることが出来る。
 ここは純粋な立ち寄り湯で、いわゆる『銭湯』のようなものだ。違いとすれば小さな休憩用の座敷が一つあるくらいか。
「練習付き合ってくれた礼だ。奢るよ」
「ハァ? 礼? うっぜ」
 そう憎まれ口を叩いているくせに、ちょっと嬉しそうだ。
「いらねーよ、バァカ」
「コーヒー牛乳と晩飯もつけるよ」
 うっぜ、と再び吐き捨てる。言葉だけ聞いたら断られてるとしか思えない。けれど、ちょっと照れくさそうな嬉しそうな調子はきっと気のせいじゃない。
 その証拠に、オイさっさとしろよ、なんて言いながら既に自転車を止めて、引き戸を開けようとしている。新開は小さく笑いながら後を追った。
 男湯はがらんとしていた。夕方の早い時間だからだろうか? 平日なら近隣のお年寄りが入りに来ているはずだ。休日はあちこちの立ち寄り湯を巡っているような観光客が入っていたりするのに。
 体を洗った荒北が、内風呂しかないが源泉掛け流しの大きな湯船に浸かってだらりと足を伸ばすと、大きな溜め息を吐いた。一八〇近い自分たちの体では、一般家庭の浴槽では手足を伸ばしてゆったり入るのはムリだ。通常の湯船では足を伸ばそうと思えば肩が出て、肩を暖めようとすれば膝が湯から出る。あるいはずっと膝を抱えたままで入らなければならなかったりする。
「気持ち良いな」
「練習終わりに温泉くらい入らせろっつーの。せっかくの箱根なんだからァ」
 荒北がいつもの少しキツめな言葉遣いでぼやく。
「こんなに足伸ばして入れなくなる」
 ハコガク自転車競技《チャリ》部は大所帯だ。幾ら広い浴槽と浴室だって、身動きもままならないほどぎゅうぎゅうになるだろう。
「うっせ。判ってんよ」
 ばしゃ、と荒北がお湯を掛けてきた。気を抜いていたところに顔にモロに掛かって鼻に入ってしまう。
「ぶあっ!」
 咳込みながらぶるぶると頭を振る。
「テメっ…! 水かけんなよ!」
 自分が始めたくせに、荒北が驚いて脇腹を軽く蹴りを入れてくる。力強いのに柔らかい足の感触に不意打ちされて、心臓が一つ跳ねた。ヤバい。これはヤバい!
「お前が掛けるからだろ」
 あらぬ状態になりそうな己から気を紛らわすために、仕返しとばかりに荒北へお湯を掛けた。それでなくても既にかなり危うい状態にある。くそ、鎮まってくれ。こんなところ靖友に見られたくない。
「匂うぜ。なんか企んでやがるな」
 吐けよ、と荒北が大量に湯をかけてくる。
「何も企んでないって」
 新開もやり返す。そうこうする内に誤魔化すだけのつもりが、次第に本気でばしゃばしゃと湯を掛け合う。夏の海でカップルが戯れるような生易しいものじゃない。相手を溺れさせるか、戦意喪失させてやろうと言う、気迫の水掛けだ。いや、お湯だけど。
 両手で必死に引っかけるだけでは足らず、湯船の中で互いに中腰になり、両手を水車のようにグルグルと振り回す。体に当たる水の勢いが強くて、痛い。
 雄叫びをあげながら、ものすごい勢いで相手に水を掛けまくる。まぁ、温泉だけどね。
「いい加減にせんかっ!」
 ビリビリと響くような一喝に打たれて、俺たちはぴたりと動きを止めた。
「温泉は静かに入れ!」
 自分たち以外に人の居なかった男風呂に、気づけば老爺が一人居た。湯船に入るところだったのだろう。厳しい目で新開たちを睨みつけていた。
 しおらしく謝まると二人で肩を並べ、大人しく湯に浸かる。神妙な顔で所在無げに天井を眺めるのまで一緒だ。掛け流しの湯が揺れて、ぼんやりと座る肩がとん、と荒北の体に当たった。
 途端にまた荒北のことを意識し出す。触れた肌が熱かった。そう言えば、さっきは互いに前を隠すことも忘れていた。意識もしなかった記憶が勝手に映像を再生し始めて、荒北の体を頭の中のスクリーンに大写しする。
 うわ、ヤバい。足の間がずしんと重くなる。マズいって。
「なんだよ、湯あたりか?」
 覗き込んでくる顔にやましい気持ちを見抜かれそうで、真っ直ぐに見られない。
「あ、ああ」
 思わず視線を逸らした。あからさま過ぎたと後悔したがもう遅い。荒北が不審そうな顔で見てくる。
「いや、ほんとに…」
「何でもねーなら、フツーの顔しろよ! 気になんだろーが」