feel you
「…なにが描かれてるのかなと思って」
広間には他に人はいなくて、
二人だけが小さなこの世界に
取り残されてしまったような…
不思議な感覚になった。
「何に見える?」
ふいに穏やかな声で問いかけられる。
「?」
澪は首を傾げて、
目線より高い位置にある
涼介の端整な横顔を見上げた。
「…この絵のことだよ」
切れ長の涼やかな目元が、
流し見るようにチラリと
視線だけこちらへ寄越し、
再び絵画へと向けられた。
澪も絵画へと目を向け、
先程感じたことを
どう伝えようか悩み…
「……これは湖なんじゃないかな…」
「……湖?」
その意外な答えに
涼介は一瞬驚いた様に瞳を開き、
澪を見下ろした。
二人の背丈より高さのある
この絵画は、離れた場所から
見なければ全体を見渡せないくらい
大きなもので、
それは薄紅色や黄色や藤色と
春の花畑のように鮮やかで、
華やかな印象を与える絵画だった。
「光がね、……空から射し込んで
水面に反射してるの。
…キラキラ光って、まるで花が咲いた
みたいに」
「……なるほど、な」
澪の言葉に耳を傾けながら、
感慨深そうに絵画を見つめて
涼介が呟いた。
「確かに、そう言われてみれば…
湖面に光が反射しているように
見えなくもない…」
「変かな…?」
恥ずかしくなって、
少し俯きながら澪は訊ねた。
「そんなことないさ。…良いイメージだ」
涼介は穏やかに微笑して
澪の背中に手を添え、
絵画の広間を後にする。
それからクラシックの音楽が流れる
館内をゆっくりと見て回り、
美術館を出ると
ちょうど良い時間になっていた。
⭐
涼介が家族と食事をしに
小さい頃から訪れるという
レストランに入り、
その日のオススメだった
ランチセットを注文した。
テーブル席につくと
窓辺から表の駐車場に停めた
涼介のFCが見える。
真っ白の車体は今、目の前にいる
彼のイメージとぴったりだと澪は思う。
今日の彼は、シワ一つない
淡い水色のワイシャツ姿で。
襟元のボタンが外されており、
ラフな印象だ。
静かになった澪に気付いて
涼介が不思議そうな顔で
澪の顔を覗き込んだ。
「どうした? 急に黙りこんで」
澪がハッとして慌てて
首を横に振る。
「な、なんでもないよっ…?」
本人の前でなんてとてもじゃないが
言えない。
見とれてしまいました、…なんて。
そうか? と、涼介は首を傾げて
テーブルに置かれたコーヒーカップに
手を伸ばす。
涼介の綺麗に整った指先を見つめて
澪は今朝の出来事を思い出し、
思考が止まった。
頬に触れられた手は熱く…、
見つめられた瞳が澪には
とても真剣なもののように
感じた。
しかしそれは昔からで、
昨日今日の話ではなかった。
けれど、それらが意味する言葉を
涼介の口から伝えられたことは
一度もなかったのだ。
カチャッと陶器が小さく音を立てて
コーヒーカップが受け皿に戻される。
凉介はなにも、言わない…
それをわたしから訊ねることなんて
できないもの。
モヤモヤとした気持ちを
どうすることもできずに
紅茶が注がれたカップの取っ手を
掴もうとして、
揺れた中身が溢れ
澪の指を濡らした。
「…熱っ! ……あ、」
「こぼしたのか?」
小さく声をあげた澪に
素早く気付いた涼介が
紅茶で濡れた澪の手を取り、
紙ナプキンで拭き取った。
「ごめんなさいっ…」
「少し赤くなってるな」
澪の手を取ったまま、
真剣な顔で指先を見つめて
涼介は心配そうに眉を潜めた。
「これくらいなら大丈夫だよ」
ありがとう、とお礼を言って
澪が手を引こうとすると…
「…いや、念のためきちんと冷やして
おいたほうがいい」
「あ、涼介っ…」
そういっておもむろに席を立った
涼介に澪はそのまま手を引かれ、
お店の奥へと向かっていった。
⭐
ログハウス風の店内を
迷うことなく進んでいく
涼介の後を澪はただついて行く。
涼介にとってここは、
よく見知った場所だったことを
思い出してその背中を見上げた。
店の奥にある木製の扉を開けると
細い通路の先に洗面所があった。
洗面所の前までくると、
涼介が自分の袖のボタンを外し、
慣れた手つきで袖を捲った。
「自分でやれるよ、涼介っ…」
さすがにそこまでしてもらうわけには
いかないと澪が慌てて声を掛けるが、
「…ほら。おいで」
至極真面目な顔で促され、
何も言えなくなってしまった。
あまり広いとはいえない
洗面所のシンクの前に澪が渋々立つと、
場所を空けるように壁を背にして
立っていた涼介が、
澪をその胸に抱き込むように
背後から手を伸ばし、蛇口を捻った。
「…あ…っ」
上背のある涼介に対して、
備え付けのシンクは低い位置に
あるため、屈まなければならない。
澪がその間に入れば、
屈んだ涼介の顔が肩口に
ぐっと近付いた。
「…指先は神経が集まっている敏感な場所なんだ。よく冷やしておかないと後で痛むぞ…」
…しかも腕の中にすっぽりと
身体が収まってしまう。
「涼介…、」
身動き一つ取れないどころか、
涼介の吐息が首元を掠めても
澪にはどうすることもできない。
涼介はこの状況に
何も感じないのか。
身体が触れ合うほど近くにいても、
普段となんら変わった様子は
見られない。
有無を言わさず、
優しい腕に澪を捕えて、
澪の指を水で冷やした。
時折、濡れた涼介の指先が
澪の手のひらを掠めて擽る。
澪はといえば、
背中に感じる熱い体温や
鼻を掠める凉介の香りや吐息、
手のひらの感触…
涼介のすべてを意識してしまい、
そんな自分が恥ずかしくて
澪は目眩がしそうだった。
涼介はなかなか離してはくれず、
なんとか堪えていたものの、
とうとう我慢できずに澪が根を上げた。
もうこれ以上、
立っていられない…
「り、涼介… もう、離して?」
羞恥で首筋まで赤くなりながら
きゅっと目を瞑り、
自由が利く左手で涼介の腕を掴んで
蚊の泣くような小さな声で
なんとか抗議する。
「…わかった」
涼介の低い声が、
耳元に直接吹き込まれて、
澪の細い肩が小さく震えた。
「……っ」
唇を噛み、声が出そうになるのを
澪はなんとか堪えた。
胸が甘く締め付けられて
窒息してしまいそうだ。
⭐
すっかり流水で冷えた手が、
ペーパータオルで丁寧に
水気を拭き取られていく様子を
熱に浮かされたように
ぼんやりとした頭で見つめていた。
「…ありがとう…」
涼介の顔を直視することが出来なくて、
澪が伏し目がちになんとかお礼を言うと、
「大事なお姫様にケガなんて
させたくないからな」
と、からかう様な軽い調子で返事が
返ってきた。
…お姫様、だなんて。
もう…
「また、わたしのことからかって……」
涼介の顔を見上げ、
文句をいいかけた澪は言葉を失った。