旅立ち集 ハイランダー編
「ええっ! ケルピーって湖の怪物でしょ! お願いだから怖い夢を見ないでよぉ!」
飛び上がるように驚くと、モリガンは母に懇願するように言う。
ケルピーとは、ハイランドのおとぎ話に出てくる架空の怪物。二本足で歩くが顔も体躯も馬に似ており、時々人間の姿にも化ける。小さな子供が好物で、気に入った子供を見つけると、湖に引きずり込んで溺死させて食べるというが、あくまで空想の生物である。
「大丈夫よ。ケルピーが現れたってことは、赤ちゃんはちゃんと産まれるってことでしょう?」
母は赤子を撫でるように、文字通り命を身籠もっているお腹を優しくさすった。
母がウィル達の弟か妹を身籠もってから、じきに半年になる。家族のなかでもモリガンが一番気にかけている。
「でも、赤ちゃんが無事に生まれても、ケルピーに襲われたらどうするの?」
モリガンはぐずるような声で訊く。
「ウィルか父さんが守ってくれるから大丈夫よ」
「ダディはともかく、兄貴は期待できないよ」
「な、なんだと?」
「心配ないわ。二人ともバカみたいに丈夫で無駄に強いもの」
「バカと無駄は余計だよ」
「そーだな。とにかく、わっちもケルピーに誘拐されないように気をつけなくちゃ」
「大丈夫だモリガン。ケルピーは可愛い子どもしか襲わないから、絶対に大丈夫だ」
母に頭を撫でられ、気持ちよさそうなモリガンに、ウィルは悪態をついて言ってやった。
「へぇ~。そうなんだぁ。って、それどういうことだよ!」
「うわっ!」
モリガンは頭から湯気が出るかのごとく怒り狂い、そして飛び蹴りを放つが、ウィルは間一髪で攻撃をかわす。
「あらあら。埃が立つから喧嘩は外でしてね」
「母さん、コイツを止めてよ!」
「待てぇ! このくそ兄貴ぃ!」
襲いかかるモリガンをどうにか捕まえると、彼女を片手で掴んだまま、ウィルは寝室から退室する。
「まったく。騒いじゃダメだろ」
「うっせーな。兄貴のせいだろ」
ウィルの脛をこつんと蹴った後、モリガンは台所にあった朝食を食卓に置いた。
献立はミルクとポテトスコーン、それから野菜と羊肉を煮込んだスープ。
残りの卵は昼食と夕食にとってあるが、すべて母のものだ。
「うん。美味しい。納得いかないけどすごく美味しい」
「なんで納得いかないんだよ……」
「モリガンも卵を食べたらどうだ。今日は多くもらえたから余るだろ」
「いらないよ。赤ちゃんが産まれたらいくらでも食べられるもん」
「偉いな。もう立派なお姉さんだな」
兄妹そろっての朝食を終えると、雨音が強烈に鳴り始めた。
「雨うるさいね。わっちのか弱い耳が痛くなるよ」
「か弱いは余計だけど、たしかにすごい音だ」
「あ~~ん。もう。耳が壊れちゃいそうだよぉ」
耳を塞ぐ妹を前に、ウィルは、なぜかふとオーウェル家での会話を思い出した。
※※※※
「まただ。またあの声だ」
怒鳴り声にしか聞こえない独り言を呟くと、オーウェルは鳥達の世話を止め、耳をすませた。
今年で七十を迎えたが身体は衰えを知らず、健康そのものだった。
雨音の隙間をぬうように、歌声は確かに聞こえる。海鳴りや雨風とも違い、歌声はもっと耳障りで、耳にするだけで腹底まで深く入り込み、何かを訴えてくる。
しいていえば、感情が宿っている。
「だとすれば、歌い手は辛気くさい娘だな……」
鳥小屋から居間に出、窓から声の方向を見る。
悲壮感に満ちた少女のような歌声は、教会堂の建つ南東側から響いてくる。
文明国からの侵略は領土や家畜だけでなく信仰心も対象だった。ハイランドには教会堂が建てられ、文明国はそこを拠点に先住民に同じ信仰心を与えようとした。
支配が終わった今では、教会堂もすっかり無人の廃墟と化しているが、声は確かにそこから聞こえるような気がしたのだ。
今度こそは聞き間違いではないと、オーウェルはメアリーを呼ぼうとしたが、彼女は椅子に腰掛けたままくぅくぅと寝息をたてていた。
どうやら編み物の途中で居眠りをしてしまったようだ。
オーウェルは再度窓へと向き直り、声をたどるように目を光らせた。
(――こんな雨の中にいるのか?)
雨はますます強まり、もやもやとした霧がうっすらと漂い始めていたが、なおも歌声は聞こえ続けた。
作品名:旅立ち集 ハイランダー編 作家名:春夏