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旅立ち集 ハイランダー編

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※※※※

「ん?」

朝食の片づけを終え、ウィルが馬小屋の餌やりに出たときである。

家の前に一頭の牛がさまよっていたのだ。

ウィルの家では牛は飼っていない。

別の家で飼われている牛が、迷い込んだのだろう。


未だに雨足が強いので迷い牛を無視するわけにもいかず、ウィルは牛を追い立てて、馬小屋にいれた。


馬小屋には三頭飼われているが、一頭は出稼ぎに行った父が使っているのでスペースも余っていた。

ハイランドの牛は鋭い頭角と茶色い毛が顔まで覆っているが、雨のせいで全身がぐっしょりと濡れ、毛先から滴が流れ落ちていた。


「雨がやんだら、持ち主を探さないと」

仕切り戸のかんぬきをしながらウィルは呟いた。

それにしても、妙である。

誰かが牛を逃がすなんて珍しい。

牛はハイランドでは生きた糧。臓物を含む、骨以外の部分は全て貴重な食物となるので、逃がさないように厳重に管理されているはずである。

妙なことは他にもある。


「よーしよし。いい子だから落ち着け」


牛の様子がおかしい。

何かを訴えるように鳴き、その騒がしさは両隣の馬にも伝染するほどだった。

(――なんだこれ?)

ウィルはあるものを見つけた。

牛の前足。泥のついたヒズメに、白い羽が混じっている。見てくれはカラスの羽に似ているが、根本がかすかに赤みがかっている。


(――ヒバリの羽かな?)


いつも見かける海鳥を連想するが、それは普通の羽とはどこか違うような気がした。


白いというよりもその輝きは銀に近い。

泥も軽く払っただけで、まるで不思議な膜が羽を覆っているかのように、すぐに落ちるのだ。


「綺麗な羽だな」


思わずウィルは呟いた。そしてそれに続いて、

「痛ぁ!」

と叫んだ。


屈んで羽を観賞していたウィルの後頭部に、ふりふりと鞭のように振られた牛の尻尾が直撃したのだ。


(――なんだよもう……)


すりすりと頭をさすりながら、ウィルは羽をポケットに入れて立ち上がる。


(――持ち主が見つかったら、すぐに送り返してやる)


心中で叫びながら、ウィルは干し草の準備をする。


と、ウィルが桑を手に取ったその時、稲妻が黒雲を割いた。


遠雷が轟くとそれに混じって馬達のいななきが小屋の中に響き渡る。

そして続けざまに雷光が生じたとき。

はっと、ウィルは振り返った。


(――誰だ?)


石枠の窓の向こう側。

馬小屋の外に。

人影が立っているのが、雷光に照らされた気がした。

地面から垂直に伸びる人影と、雷光によって生まれた地面に伸びる影が、同時に見えたはずだった。

だが窓からその場を凝視しても、人影どころか兎一匹すら見当たらない。

雨中には何もいなかったのだ。

ぼつぼつと、雨が藁屋根を叩く音が頭上から聞こえる。


ウィルは妙な寒気を感じて壁窓から離れ、馬達の餌やりを始め、それを終えると早々に家に戻った。


※※※※

酒場を出た一行は、山脈にのしかかる暗雲を見上げた。


ここはローランドの港街の通り。北を見れば、酒場の看板と集合住宅の隙間とを隔てて、遠方の高地が映る。


どうやらハイランドは悪天候にみまわれているようだ。

ローランドでも小雨は降っているが、ここと上では天候はまるで違う。


「あの雲なら雨はすぐに止むだろうが、問題は霧だ。今日は一泊した方がいいだろう」


一行のリーダーと思われる男が言うと、他の者は異論を唱えずに従った。

彼らはハイランドから出稼ぎに来た男達である。

織物や石薪を運び、馴染みの店や酒場にいる漁師や商人に販売する。

時には金ではなく食料で引き換えることもある。

それらを持ち帰って生活の糧にするのだ。

体格も顔も違うが、男達の服装は同じだ。


腰の革ベルトには剣をさし、それぞれ色は違うが格子柄のプラッドを纏い、左肩のブローチで止めている。一目でハイランダーとわかる服装である。


石畳の通りから宿場に入ると、相部屋をとり馬達は小屋へ入れた。


この宿場は霧の孤島が独立し、ローランドの交易化が加速した時期に建てられたもの。

下っ端船乗りの寮として使われ、部屋は通路を挟んで木造の二段ベッドが向かい合うように置かれている。

船乗り達は同じベッドに二、三人で寝起きしていたらしい。

窓は小さく殺風景な部屋だが、男臭い彼らが泊まるだけなら問題はなかった。


「本心を言えば俺も無駄な経費をかけたくないが――」


リーダーの男がベッドに荷物を置きながら言った。


「――だからと言って怪我をしてはもともこもないからな」


その言葉に、他二人の男も頷いた。


「それにしてもマクレガーさん。あの漁師の話、どう思います?」


「うん? あの怪物云々という話か。かなり酔っていたが、嘘には聞こえなかった」

「そうですか? 私には信じられません」


若い男は柳眉に皺を寄せていた。


昨晩、彼らが酒場にいたときである。

酒に酔った一人の漁師が、卓の上に飛び乗り、声高らかに己の武勇を叫んでいたのだ。

なんでも捕鯨の最中に怪物と遭遇し、その身体に銛を突き刺したというのだ。

蝋燭の灯りが照らす漁師の顔は悦喜に満ち、卓上で身振り手振りをふまえて話す姿は、客全員の注目を集めていた。


「怪物か。もしかするとハイラガードから流れついた魔物かもしれん。あそこには迷宮があり、魔物が住むと聞き覚えがある」

「ハイラガード以外にも、迷宮のある都市はありますよ。エトリアとか、タルシスとか」

「エトリアにタルシス? 初めて聞く都市の名だな」

「都市の名前よりも、マクレガーさん。大事な名前はもう決まったんですか?」

「名前?」

「お子さんの名前ですよ」

「ああ。そのことか」


彼が子供二人をかかえる父親で、妻がじきに三児を産むことは知られていた。

マクレガーと呼ばれた男は、恥ずかしそうに笑いながら答えた。


「女の子だったらルー。男だったら、少し迷っているんだが……」


ルーという名はハイランドに伝わる女神にちなんでつけた名だ。


「男だったら、アーサーにするつもりだ」


それは霧の孤島で古くから伝わる剣神と呼ばれた王の名。いろいろと迷ったがこれに決めたのだ。


その男の名はウォーレス・ロイ・マクレガー。マクレガー家の大黒柱あり、ウィル・ロイ・マクレガーとモリガン・ロイ・マクレガーの父である。



※※※※


夕食の後片付けを終えた兄妹は、二人並んで石枠の窓に肘をのせて夜空を見上げていた。


かすかに湿気を含んだ匂いが漂うが、空はすっかり晴れ渡り、星々が瞬いていた。


常に気温の低いハイランドでは季節を問わず空が澄み、月明かりは青白く、悽愴さすらも感じさせる。


「父さん帰って来なかったね。今日の夕方には帰る予定だったのに」

「昼から霧が出たからな。前にローランドから戻るときに、霧で怪我人が出たことがあったろ。だから霧が出そうなときは泊まるんだってさ」

「霧が出ているって、ローランドから見えるのかよ?」

「父さんにはわかるんだよ」

「ふ~ん。すごいなぁ。お前も父さんを見習えよ」
作品名:旅立ち集 ハイランダー編 作家名:春夏