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旅立ち集 ハイランダー編 No2

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※※※※

モリガンは憤懣やるかたないといった心境だった。


いつもならこの時間帯に朝食は完成し、料理を母にふるまえるというに。今日はウィルが帰路で道草をして帰りが遅かった。

それだけならまだ許せたが、途中で卵を置き忘れたというのだ。どうやら廃墟の教会堂に置き忘れたらしい。

これにモリガンは怒り心頭。すぐに取りに行けと兄の尻を蹴り飛ばして追い出したのだ。


「モリガン。バカみたいに丈夫だからって、お兄ちゃんに乱暴しちゃダメよ」

と言ったのは、ベッドに横になる母である。


「乱暴なんかしてないもん。ちょっと制裁をくわえてやっただけだよ」

「家族なのに制裁なんておかしいでしょ」


母の声が少し鋭くなった。

モリガンは母に背を向け、ベッドの脇に腰かけたまま自分で髪を三つ編みに束ねていた。

口調こそ優しくても、母の言葉は兄や父よりも厳しく聞こえた。というよりも、母は兄に対して少しあまい部分があった。それとは逆に、父は自分に対してあまいが兄に対して厳しい気がする。異性の親とはそういうものなのだろうか。


「モリガンはお兄ちゃんが嫌い?」

「嫌いじゃないけど……。忘れたのは許せないもん。赤ちゃんの大切な栄養なのに」

「お兄ちゃんだってわざと忘れたわけじゃないわ。きっと何か事情があったのよ。お兄ちゃんが日頃からくそ真面目なのは知っているでしょう」

「知ってる。兄貴はくそ真面目だよ。寄り道したのも怪我人を見つけたからだって言ってた」


不服そうにも返答するモリガンに、母は笑う。


「それなら許してあげなさい」

「……わかったよ」


ぴょいっとベッドから飛び降りると、モリガンは寝室を後にした。

ウィルを許せない点はあるが、確かに母に言われた通りである。気の合わないマクが家に来て、その苛立ちから過剰に責めたのかもしれない。さすがに跳び蹴りくらわす必要はなかったろう。後で少しは謝ってやるか。


「モリガンちゃん」

「え?」

居間に出て、台所で朝食の下準備にかかろうとした時である。聞き慣れぬ声が脇から聞こえ、振り返るとウィルの連れ帰った怪我人が立っていた。


玄関の外で倒れてしまい、二人でベッドまで運んだのだが、もう歩けるのだろうか。


「お姉ちゃん、身体はもう大丈夫なの?」


警戒することなく彼女に歩み寄り、見上げる。女はモリガンよりも背が高かった。

まだ気分が優れないのだろうか。見下ろしている眼差しはどこか虚ろだった。よく見れば片手で椅子を掴んでいる。立つのも辛いのだろうか。


「お怪我は大丈夫?」

腕の怪我はモリガンが手当てした。傷は深く、破風症のおそれもあったが応急手当くらいしか出来なかった。


「そういえばお姉ちゃん、どうしてわっちの名前を知っているの?」

「ねぇ。なくなっているんだけど?」

「えぇ? 何が?」


訊き返すモリガンを無視して女は「なくなっている」と繰り返した。


「盗んだの?」

「へ?」

すぅっと、虚ろだった女の目に怪しい光が宿り、その言葉の後にしばらくの沈黙が訪れた。

女はもどかしいほどゆっくりと顔を動かし、台所を見渡した。戸惑うモリガンは、黙ってその様子を見上げていた。


どう話しかけていいのかわからない。話しかける勇気がわかない。背筋に冷たいものが走り、ぞわぞわと鳥肌が立つ。それは動物的な本能と言うべきだろうか。


よく考えればこの女は何者だ。なぜ怪我をしていた。盗んだと口にしたが、もちろんモリガンは女の所持品を盗んでなどいない。

左右を見回した後、女はモリガンをじっと見下ろし「私のマントは」と低声で訊いた。


「へ?」

「マントよ」


女の言葉は簡潔だった。そんなこともわからないのかと言わんばかりに、明らかに訊き返すモリガンに苛立っている様子だった。


「えっ、え~っと」


慌ててモリガンはマントを探す。

運ばれたときにマントを着ていたことはモリガンも覚えていた。ただシャツを脱がす時に邪魔になったので遠ざけておいたはずだ。


それをどこに置いたのか思い出せない。とてとてと走る小さな背中を、女はじっと睨むだけで手伝おうとはしなかった。


それどころか「早く返して」と、催促までするのだ。

モリガンはますます慌てる。ちらりと女の剣幕を一瞥しただけで、このまま見つからなければ、何をされるかわからないと恐怖すらも覚えた。


「どうして私のマントを盗んだの?」

「違うよ!」

思わずモリガンが振り返る。


「盗んでなんかないもん、きっとどこかにあるもん!」


毅然と言い返したつもりが、なぜか涙声になっていた。

ひくつく唇を噛みしめスカートの裾を握りしめる。

いっそこのまま家から逃げ出しウィルの帰りを待ちたかったが、母を置いて一人で逃げるわけにはいかない。


モリガンは怖がりではない。同じ歳の男子に比べても勇気――というより無鉄砲さ――がある。古城の骸骨を見てもケルピーの話を聞いても、恐怖を覚えたことはない。


希に怯えることはあっても、そうした表情は顔には出さず、どうしても耐えられなくなった時だけ、気付かれないように兄か父にすがりついて身体の震えが止まるのを待つ。

だが今は兄も父もいない。頼れる者がいなかったのだ。


「盗んだなら制裁をしないと」

「制裁?」


先ほど自分が口にした言葉だが、女の言い方には背筋を凍らせる迫力があった。

女の凍て付いた眼差しの奥に、暗い炎が揺れている。全てのものを憎み焼き尽くしてやまないその炎に、モリガンは息を呑んだ。


この女は本気で自分が盗んだと信じている。どんな弁解にも聞く耳を持たない雰囲気をまとっている。

女が歩いた。食卓の向かい側なので距離はある。

にもかかわらず鼻先に迫るような威圧感を覚え、思わずモリガンは後退る。


「――――」

女が口を開いた。モリガンに聞こえたのは「あ」という感嘆のような声だけ。確かに女は声を出し続けているが、それがまったく聞き取れない。


きぃぃんと強い耳なり起こると、次いでモリガンの身体は震え上がり膝が屈せられた。

臓腑の内から一瞬で身を凍らせるような凍てつきが、小さな身体を襲った。風圧かあるいは衝撃派ともいうべき奇声が女から発せられた。

人間の持つ力を逸脱している声だった。

言葉が意味を持つ呪言や詠唱とは違い、それは押し寄せる空気の振動が聴神経を通じて脳を麻痺させたという方に近い。その力は世の理を歪める異端者とでもいうべきだろうか。


※※※※


ウィルは憤懣やるかたないといった心境だった。


馬から下りると、ひりひり痛むお尻をさすりながら、廃墟の教会堂へと進んだ。いくら卵を置き忘れたからといって、背後から跳び蹴りを放つことはないだろう。


思わずゲンコツで仕返ししてやりたかったが、赤ちゃんを思って怒り狂う妹を前にウィルは渋々従い、馬を走らせてここまで戻ってきたのだ。

墓碑の乱立する玄関間を抜け、一部の壁と石床しか残らない聖堂へとさしかかる。