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旅立ち集 ハイランダー編 No2

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今日までウィルはここに入ったことがなかった。せいぜい墓碑の辺りを眺める程度だった。先程は霧が出ていたのでわからなかったが、中庭には背丈のある石の十字架が建っている。


縦と横の組み合わさる部分には円環が組み合わされ、原形をしっかりととどめている。これも教会堂と一緒に建てられた十字架なのだろうか。


ウィルは十字架から振り返り、四辺を見渡す。


ちらほらと砕けた壁が石塁のように地面に残り、足元を隠している。

中庭にはかつて柱廊があったのだろう。柱の基礎と思われる石土台が残っている。

どの辺りで卵を置き忘れただろう。無意識に置いたとなると見当もつかない。ましてあの時は霧が出ていたのだ。隅々まで丹念に調べるしかないだろう。


(――うっ)

石塁を跨ぐと、突如ウィルは身体がむず痒くなった。

蚊の羽音に似た不快な高音が耳元で聞こえたのだ。

それと同時に、ぷうんとした家畜臭も漂ってきた。


(――逃げ出した牛がここにいるのか?)

ウィルは臭源を追った。

そういえば女に会う直前にも、こんな臭いを嗅いだはずである。そして何かに躓いたはずだ。あの正体が何だったのか確かめていなかった。

遠雷が聞こえた。

見上げると空模様がおもわしくない。泣きだしそうだった空にはますます雲が垂れ込め、いつしか風も吹き、気温もぐーんと下がってきた。

ウィルはさらに奥へと進む。霧が出ていないのはありがたいが、こう悪天候では長くはもたないだろう。


(――牛?)

ウィルの視線の先。石壁にもたれるように一頭の牛が倒れている。死んでいるとウィルは悟った。

ウィルは手で口を押さえて近づき、牛を見下ろす。

不自然に曲がった四肢が硬直したまま宙へ向いており、野鳥によってえぐられたのか眼球は無くなり、その陥没した穴からは蛆虫が出入りしている。


吐き気を覚え、ウィルは牛から遠ざかる。あれはモンゴメリー家の牛で間違いない。マクはローランドへ下りたが、これは牛泥棒の仕業ではない。


牛泥棒なら牛は殺さず、そもそも廃墟に逃げるわけがない。

さらに、牛は逃げ出したわけでもない。その証拠が、傷口である。牛の頸部が貫通していたのだ。細く鋭い、槍のようなもので貫かれたのだろう。

空洞になった傷口からはトンネルのように反対側がくっきりと見えた。骨まで貫く一撃だ。中途半端な力技ではない。


――いったい誰の仕業だ?

――誰が牛をここまで連れて殺した?

――殺す理由はなんだ?


考えながら歩いていると、地面に突き立つ影が見えた。十字架にしてはかなり細い。


(――これは?)

それは立派な銛だった。一本の銛が、割れた石床の隙間に突き刺さっていたのだ。思わずウィルはそれを引き抜いた。堅そうに見えるが、柄は触れるとよくしなる。


普通の銛なら柄の部分はもっと短い。たいてい持ち主の腕の長さしかない。ところがこの銛は、伸び盛りを過ぎたウィルの背丈近くもある。


刃は錆一つなく、研磨された刃先を見ればウィルの顔が映り込む。


銛なら突出するように細長い刃が付いているが、これは刃と柄が密接で、刃は剣のように平らだ。さらに軽量化の為か刃に空かしも入っている。


だが、これが銛であることは間違いない。刃の根本に潮の香りの染みこんだ網が巻かれているのが何よりの証拠だ。何かに例えるならこの銛は、槍のような代物だった。

そして銛を知らなかったウィルは、これを槍と思い込んでいた。


(――待てよ)


切っ先に見とれつつ、ウィルは女の傷口を思い出す。あの腕の傷はこれにつけられたものではないだろうか。


いや。そんな馬鹿な。この槍で突かれれば、あの程度の傷ではすまないはずだ。妙な考えを払拭し、ウィルは槍をもとあったように突き刺した。

今朝ここに来たのは女の歌声に誘われたから。

もしそれがなければ、牛も槍も発見しなかったろう。というか、あの女は牛が死んでいることに気付かなかったのか。


ぷん、と蠅の羽音が耳元をよぎった。

変色した牛の黒さがひしひしと背に染みる。

「…………」

五臓六腑の端々でざわざわと気が逸る。

いてもたってもいられなくなり、ウィルは槍から踵返す。


自分はとんでもないものを招き入れてしまったのではないかと、今更になってウィルは気付く。

その刹那。ウィルの脳裏に浮かんだのは妹である。


(――モリガン!)


正体不明の人間がいる家に、モリガンがいるのだ。

ウィルは急いで馬に戻ると、馬首を帰路へと向けた。

卵を持ち帰らないとまたも尻を蹴られるだろうが、そんなことを気にしている余裕はなかった。


早く帰らなければ妹が危ない。

※※※※


早朝にローランドを出発したウォーレス達は、荒涼とした一本道を歩いていた。

右手には緩やかな起伏の多い草道が続き、左手には無人の砦が見える。
文明国がローランドを支配し、ハイランドまで攻め入ろうとした際に築城した駐屯地だ。

先の尖った丸太の壁に囲まれているが、兵舎や武器庫があったのはもう昔の話。現在は壁が崩れ、砦の一部だった材木や金具は大工道具として持ち去られている。


それを過ぎると傾斜がさらに急な坂道が続く。

ここからは安全の為に下馬して手綱を引いて歩くのが常だった。


「ウォーレスさん、あれを」


先頭の男が指差す処を見ると、盛り上がって隠れていた坂道から、下馬して坂を下る人物が見えた。


「弓射の女神がいますよ」


相手も上ってくる男達に気付いたようで、笑みを浮かべて手を振っていた。

「やぁ。マクじゃないか」

「皆さん。今ローランドからお戻りですか」

「そうだが、こんな処まで下りてどうしたんだ?」

「実は……」

男達はマクから事情を聞いた。

牛泥棒はローランドにもいればハイランドにもいる。集落に住まず、廃墟や洞窟に移り住んでいる者が希に牛を盗む。泥棒の被害に合った時は、持ち主が誰であろうと全員で捜査するのがハイランダーの掟だった。


「牛泥棒か。ローランドからここまで来たが怪しい人物はいなかったし、牛の歩いた痕跡もなかったぞ」

「そうですね。私もここまで来ましたが、痕跡はありませんでした」


マクが捜査で見落とすはずがないと、男達は知っていた。


「ハイランド側に逃げたなら目撃者がいそうだが、それにもかかわらず盗まれるとは」

「一度ハイランドに戻ったらどうだ? マク一人じゃ簡単には見つからないだろう」

「そうですね。詳しい事情は戻りながらお伝えします。あれ? ウォーレスさん、それ何ですか?」


マクはウォーレスの引く馬を見た。


馬の鞍には荷物がつり下げられているのだが、その中に見慣れない代物が混ざっていたのだ。

それもウォーレスの馬だけでなく他二人もそれを持っている。ローランドから男達が荷物を持ち帰ることはあるが、全員揃って同じ、それも見慣れない代物を持ち帰るとは珍しい。


「うん? これか? これはな――」

ウォーレスはそれを手に取ってマクに見せた。

それは片手サイズの小樽で、蓋を開いて中を覗くと、そこには異様な匂いのする液体が揺れていた。