Cyclone
次の店に行くというみんなの声を後ろに聞きながら、僕は前を歩き出したあの子に声をかける。さすがに名前や苗字で呼ぶようなことはない。あの子、だなんて親しげに考えたりするのは心の中でだけ。いつか、口に出せたらいいなだなんていまだに思っているんだけど。
「……うん。ちょっとどこか寄り道するかもしれないけど」
「ご一緒したら、迷惑ですか?」
声にしてからやばっ、と思った。まだ好きなことなんてきっと君は知らないよね。男がここまで引きずるってこともバカにされちゃうかもしれない。
でもそれは杞憂だったようで。
「別に、いいよ。もしかしたらどこかの公園かもしれないけど」
「その時はコーヒーおごりますよ、缶でよければ」
ずっとつまらなさそうにしていた君が、ほんの少しだけ笑ったような気がした。
なにも言わずに歩き出す。本当に寄り道するのかもしれない。駅へ向かう大通りを横道にそれた。僕はこの辺りにそんなに詳しくないから、ついていくだけだ。
前を歩く彼女が、長い髪をかき上げた時にちらりと見えたうなじに少し、どきっとした。ほんの少しだけ顔が赤い気がする。酒に強いという話は聞いたことないし、それなりに飲んでいたから酔っているのかもしれない。もちろん僕もそれなりに酔いを感じているから、きっと顔は赤いだろう。
そのままどんどん駅から離れていって、小さな児童公園に着いた。子どもが遊ぶために作られたんだろう小さな丘の向こうにコンビニの淡い明かりがかすかに見えた。
「先輩はこの辺り、よく知ってるんですか?」
「まあ、地元だからね。ええっと……」
「進学のためにこっちでひとり暮らし、始めました。色々と毎日大変です」
苦笑しながら言う。実際問題大変だったし。
「あ、タバコ吸うっけ? ライター落としちゃった。あっちで買ってくるのも面倒だし持ってない?」
……僕はまだ、タバコを吸ったことがない。
でも、なぜかライターはいつもポケットに入れていた。
なぜかって?
「持ってます。お点けしますよ」
こうやって、先輩のタバコに火をつける日が来るかもだなんて思ってたからだ。
振られてからも持ち歩いていたし、バカだし情けないなあってわかってるよ……。
「んー……」
強い風のせいで、なかなかつかない。僕の点け方が下手なのかもしれないけど。
ちょっと貸してと言われるままに手渡すと、今度は一発で火が点いた。
……うわあ、僕、格好悪。
それを誤魔化すように、缶コーヒー買ってきますねと僕はその場を離れた。
気まずいかんじではないけど、なんだかやりにくいな……と思っていた。嫌なかんじではないんだけど、私は罪悪感が少しあるみたいで。
なので、あんまり話もしないでここまで歩いてきた。思っていたよりも酔っていたみたいで、まだ顔が熱い。ここから駅までは五分十分程度なので、ちゃんと時計を見ていれば終電云々は関係ないし。歩いても帰ることはできるけど。どうせ私はひと駅先なだけだし。
火の点いたタバコをふかしながら空を見上げる。本当に風の強い夜。雲の切れ間にちらちら見える夜空を星が流れていく。一緒に帰ることになり、なしくずしにここまで一緒に来ているあの子は今、コンビニに買い物しに行っている。そういえばあの子タバコ吸う子だったっけ?
だから、私はひとりだ。ひとりでただ、風になびく髪を少し鬱陶しく思いながら空と音を立てて揺れる木々を見ていた。
――車のライトが通り過ぎて、消えた。
「先輩、ただいまです」
「あ、おかえり」
冷たい缶コーヒーを差し出される。受け取って頬に当てると気持ちいい。
ひと息ついて私も気持ちがほぐれたのか、話す余裕が出てきたみたいで。話しかけられるままに彼としゃべっていた。どうでもいい話。今日の飲み代が万馬券だったこととか。
楽しい、と思うし嫌じゃなかった。
私がずるい言い方で振ったりしたこともあったのに、どうしてこの子はこんなに気安く話しかけてきてくれるんだろうと少しだけ思った。
ちょっとだけ意識している心の一部が、変な反応しそうなのを抑えつける。
そんなわけないでしょ。
バカなこと考えてるんじゃないの。
あんな目にまた合いたいの?
――ううん、もう二度と嫌。
でも。……なんでもない。なんでもないんだ。淋しいだなんて思ってなんかいないんだ。
なんだかふたりとも沈黙が怖いとでも思ってるみたいに、どうでもいい話を続けていた。
話が途切れたら、なにか嵐が吹き荒れてしまうんじゃないかとでもいうかのように。
彼女が何本目かのタバコをゴミ箱に捨てる。僕が何度試してもダメだったのに、この風の強い中一発で火が点くのはどうしてだろう……。
やっと笑ってくれたりしたことが嬉しかったけど、会話が途切れるのが怖かった。微妙な距離感があるって意識し始めたらもうダメで。僕はもっと近くに行きたいと思っていた。
あの風になびいている髪もまとめて抱きしめて。
この激しい夜にまかせて君の手を握り締めて。
そんなことばかり思い浮かんで、鼓動が早くなるのを止められない。ああ、ダメだダメだ、下手に動いたらもう本当に側にいられなくなるかもしれないのに!
「先輩、風が強くて聞き取りづらいんで、もうちょっと近くに座ってもいいですか?」
「え、あ、うん」
思い切って言ったひと言は、すんなり受け入れられてしまった。
「なにか嫌だったら言ってください」
そう言って僕は――今まで正面のベンチに座って向かい合わせだったんだけど、彼女の隣に座ったんだ。
ほんの少しだけれど彼女の温度を感じるような気がする。僕は変態かもしれない……。
「こんな風に話すのって久しぶりだね」
どこか遠くを見て彼女が言う。すました顔で、タバコをふかして。
そうかもしれませんね、とその視線の先を追うけれど、ただ雲の切れ間から星が見えるだけだった。
ものすごい速さで、雲が藍色の空を流れていく。
先輩が、タバコの箱を取り出そうとして、落とした。それを拾おうとした僕と、先輩の手が触れてしまった。
その前後になにを話していたかなんて、吹っ飛んでいった!
触れて思わず握り締めてしまって。
まだ中に数本入ったままの箱はそのまま転がっていってしまうけれど、そんなことどうでもよかった。
「ご、ごめんなさいっ」
「いやいいよ、大丈夫……」
「先輩って、冷え性ですか?」
彼の口をついて出た間抜けな言葉に笑ってしまう。落とした瞬間たまたま握られてしまった私の手は、確かに冷たいに違いない。そうだよ、冷え性だよ。
そんなことはどうでもいい、どうして私はすぐに離してと言わなかったの? なんでちょっと嬉しいと、本気で思ってしまったの? これも全部お酒のせいにしてしまえば楽になるって、わかってる。
先輩は嫌がらなかった。だから握ってしまった手は、離さなかった。酔いにまかせているんだって自分に言い聞かせて、さらさらしてひんやりした考えてたよりもずっと小さな手を……。
あ、もうダメだ。抑えきれないかもしれない。でも、口をついて出た言葉は間抜けなひと言で。
「冷え性の手って嫌い?」
「い、いえそんなことないです、それより寒くないですかっ」
「えっ、あっ」