賢い鳥1
「飛鳥よく覚えてんなー。俺天気予報なんか試合の前しか見てねえよ」
「俺も毎日見てるわけじゃないよ」
語尾が笑いでほころぶ。落ち着いているのに気取らない。そんな会話を背中で聞きながら瑛はムッツリ黙り込んでいた。
たまたまグループ分けして整列したら享の目の前だった。視界に入らないんだから気にしなければいいと思ったのに、グラウンドに業者が入るからとあまり広がらないよう言われて窮屈な並びになった。その上背後で喋られたら否応なく声が耳に入ってくる。
それでも享は積極的ではなくて、話題が自分から離れるとまた口をつぐんだ。後から思えば黙りこくっている瑛に気づいて気を使ったのだが、瑛が気づくことはなかった。
今日の天気予報は晴れのち雨。朝は青空が見えていたのがあっという間に厚みのある雲に隠れてしまった。雲の流れが早い。
コーチが席を外している間に雲が一時的に流れて太陽が顔を出す。さっきまでいつ雨が降り出すかと思われたのに日差しは強くて毛穴からじんわりと汗が滲んだ。
密度高く並んでいると余計蒸し暑くて空気が薄くなる気がする。
(早くコーチ戻ってこねえかな)
腕組みして貧乏揺すりでもしていたいがこうも窮屈では誰かに邪魔にされるだけだ。そうなれば余計にイライラするはめになる。
急速に形を変えて太陽に迫ってくる雲を見上げた時だった。
前触れ無く背中を押された。咄嗟のことで耐え切れなくてドミノ倒しに目の前の男の後頭部に頭をぶつけたところで堪忍袋の緒が切れた。
「何すんだこの野郎ッ!」
勢い良く振り向いて勢いのままに享の胸ぐらを掴んだ。後ろによろめいた享をそのまた後ろのヤツが支える。
「今押しただろ?!」
「押してない」
「嘘つくんじゃねえよ!」
いつもなら困った顔で謝る享が、今日は眉間にシワを寄せて小さな声で否定した。
「ぶつかったのは謝るよ。でもわざと押したわけじゃ…」
「うっせェ。お前ずっと俺のことムカついてたんだろ」
「おい、お前ら何喧嘩してんだ!」
やっと戻ってきたコーチはすぐに自体に気づいた。それでも一度噴き出した怒りは収まらなくて手首をゆるく掴んだ白い手ごと襟を揺するった直後。享の体がぐらりと揺れて崩れ落ちた。
「なっ」
体重がかかったことで掴み上げた襟が手から落ちる。完全に力を失った体は後ろに立っていた仲間の足にもたれかかって地面に倒れこむのを回避したが、ぺったりと湿った地面に足をついて目を開かなかった。
「おい、飛鳥!大丈夫か?!」
列をかき分けてコーチが目の前に来てもうんともすんとも言わない。気を失っていた。
その顔は本当に一緒に練習をこなしてきたのか疑いたくなるほどに白くて、静かに伏せられたまつげの黒さがやけに目についた。
医務室の椅子にどっかり腰を下ろしたときには渋いため息が出た。病院とか保健室みたいな消毒液臭い場所は苦手だが、今だけは安息の地のように感じる。
倒れた享が医務室に運び込まれてから瑛を含め近くにいた数人がまとめて事情聴取にあった。最初から瑛が何かしたと睨んでの問い詰めだ。
「胸ぐらを掴んだだけで殴ったりしたわけじゃない」
「そもそも飛鳥が嫌がらせで後ろから突き飛ばしてきたのが原因だ」
何度説明したって納得してもらえない。周りも瑛が怒鳴ってからのことは見ていたので殴っていないことだけは証言してくれたが、発端の背中を押されたあたりを見ていた者はいなかった。
「鷹匠が一方的に飛鳥を嫌ってたって話も聞いたぞ?」
他の子どもを開放してから一対一の面談でそんな話を持ち出してきた。誰のチクリか分からない。
「そうッスけど関係ないッスよ。俺じゃなくてあっちが先に…」
「飛鳥は違うって言ってたんだろ?みんな飛鳥がそんなことするわけないって言ってるんだ」
だからどうだと言うのだ。嘘なんか言っていない。
しばらく睨み合った上、この件は享が目覚めるまで保留になった。保留といっても目覚めたヤツが「押してません」と言えばそこで瑛の罪が確定するだけだろう。
「飛鳥の保護者に連絡入れるからお前は医務室に見舞いに行っとけ。起きてたらちゃんと謝るんだぞ」
やっと解放されたと思ったら医務室に直行させられた。カーテンで仕切られた内側に入ると享はまだ眠ったままだった。倒れた直後はこのまま死ぬのではないかというほど不安になったが、真っ白のベッドに横たわっているのを見ると眠っているだけに見えた。
でも寝息も小さくてあんまり静かなので不安になって手のひらで呼吸を確かめた。微かに吐息が触れる。ホッとして引いた手が頬をかすめた。
「ん……」
「わりぃ、起こした」
眉間にしわを刻みながらうっすら目を開ける。普段の愛想が欠片もなかった。
「倒れたの覚えてるか?ここ医務室」
「……何でお前がいるんだ?」
お前。コイツの口から初めて聞いた。
「俺とモメてるときに倒れやがったから全部俺のせいになって謝れって連れてこられたんだよ」
「コーチは」
「お前んちの親に電話してる」
「…………」
掛け布団の上に乗った手が固い拳になる。
「親には言わないで欲しいってか。喧嘩の原因だってテメェが最初に手ぇ出したんだから自業自得だろうが」
「誤解だって言ったろ」
「意味わかんねー。お前の後ろに並んでたヤツらだってお前のこと押したりしてないって言ってたぜ。一人で勝手に転んだってか?つったってるだけなのに?」
「うるさい」
「ンだと?!」
身を乗り出した肩を突き飛ばされて丸椅子に尻餅をついた。後ろにつんのめりかけたのをカーテンを掴んで踏みとどまる。
「本性出しやがったな!」
声を荒らげた途端、手のひらでストップをかけられた。
「寝不足で辛いんだ。話は聞いてやるから静かにしゃべれよ」
「寝不足?気楽なもんだな」
素直に声のトーンを落としはしたが、その分一度の放出できない苛立ちを一つ一つ目の前に積み上げる。
「遅くまでゲームかなんかやってたのかよ。お前んち金持ちなんだろ?オヤジもプロチームで仕事してた医者だって聞いたぜ。いいよな、何でも持ってる奴は」
上体を起こしたものの顔を片手で覆って項垂れたまま黙ったまま。ちゃんと聞いているのかも怪しい。
「今日だって練習あんのに夜更かしなんて余裕だよな。調子乗ってんじゃねえの?この間だって…」
「気楽はどっちだ」
「あぁ?」
聞かせるために言ったというよりついついこぼれたぼやきだった。
「どういう意味だよ」
表情を窺おうにもゆるく立てた膝に肘をついて顔を上げようとしない。俯いたまま、今度ははっきりと話し始めた。
「お前、いつも親に送り迎えしてもらってるよな」
「だからそれがどうしたってんだ」
「俺はいつも自分の足で来てる。セレクションも親には黙って受けて、受かってから説得した」
「…………」
「本当は親はサッカーなんかさせておきたくないんだ。お前の言うとおりうちは医院やってて、俺はその跡継ぎって決まってる」
「決まってるっつったって自分の人生だろ?」
「期待されてるんだ。そんな簡単に振りきれない」
「だってお前、セレクション受けたんじゃねえか」