賢い鳥1
やっと顔をあげたかと思えば醜い顔をしていた。機嫌が悪いところに水でもぶっかけられたみたいだ。今なら一方的でない喧嘩ができそうだった。
「俺は自分の力で、頭で選んで本気だって見せつけなくちゃいけないんだ。誰かのすすめに従うんじゃだめだ。頑張れば親もきっと認めてくれるって思って、セレクションに受かってから報告した」
「で。今練習に通えてるってことは納得したんだろ?」
少し間があった。横目で小馬鹿にするように笑われてカチンときたがそこは堪えた。相手は倒れたばっかりだ。
「条件がある。成績は落とさない。塾に通えない分自分で勉強する。もちろん練習も休まず通う」
瑛にはそれがどれほどのことかわからない。享の通う葉蔭学院の偏差値を聞かされたってピンとこない。自分の通う市立中学よりも上だというのが漠然とわかるだけだ。
「条件が守れなかったら即アウト。辞めさせられる」
「……!」
「だからゲームなんて買いに行く暇もないんだよ。家では勉強ばっかりしてる。昨日だって週末だからって沢山宿題が出て、土日を丸々練習に集中できるようにしたくて徹夜でやって……」
「結局倒れてんじゃねえか」
「…………だな」
素直に頷かれたのがショックだった。むき出しの穏やかでもない、柔らかでもない享が自分の揶揄を受け入れたことが気に入らなかった。
もっと自分の苦労を主張して駄々をこねればいいのに。優等生の皮を被っているのが気に食わなかった。どこかで何かをズルして得な人生を送っているように思っていた。
やっと化けの皮が剥がれたと思ったのに、こんなのは面白くない。
家族にも応援されず練習時間も無理をしないとひねり出せないような奴に俺は負けたのだ。気楽なのは俺の方だ。投げつけた言葉が跳ね返って頬を打つ。
「お前が言ったの当たってるんだ」
「あ?」
「ずっとムカついてた。俺が何した。絶対負けたくなくてずっと見てたよ。鷹匠を止めたくて研究してたんだ」
「この間の、止めて嬉しかったかよ」
「ああ。すごく嬉しかった」
「このヤロ……」
歯を剥き出しにして威嚇した顔を見てヤツは噴き出した。大人向けの大人しい笑い方じゃなくて、遠慮無く俺を馬鹿にする笑いだ。謝りもしない。
「じゃあさっきのも寝不足が原因でフラついたってことかよ」
「最初から言ってるだろ。弱ってるところに陽が照ってきたら耐え切れなくなって。……体調管理ができてなかったからやっぱり自業自得か」
また優等生らしい享が顔を見せる。良い子のふりをする必要はもうないから、これは享の本質だ。自分ばっかり責めるような口ぶりに腹が立った。
「これが親に知れたらお前、辞めさせられるのか?」
「……かもしれない。まだ二ヶ月も経ってないのにさ」
段々細く高くなる声がいつか涙声になるんじゃないかと思った。喉を握りつぶされるみたいだ。布団の上の拳に力が入って白くなっていた。冷たそうな手だった。
たっぷりの沈黙の後に廊下から足音と話し声が近づいてきた。案の定目的地は医務室で、コーチと享の母親がカーテンを開けてベッド脇に並んだ。
コーチの紹介で瑛が頭を下げると母親も子供相手にも関わらず丁寧に頭を下げてくれた。
調子を尋ねられても享は大丈夫の一点張りで、話はすぐに騒動の原因に戻ってきた。
「鷹匠、ちゃんと話はできたか?」
「……はい。さっき飛鳥に押されたって言ったけど、やっぱ俺の勘違いでした。別の奴の腕が当たったのを真後ろの飛鳥と勘違いしてたみたいッス」
「鷹匠っ」
こっそり布団の端を引いて口を挟もうとした享を黙らせる。
「別の奴?誰だ」
「あ?えーっと、平迫?」
「平迫にもさっき話を聞いたけど何も言ってなかったぞ」
「大騒ぎになったからアイツぶっこいてんじゃないッスかね。ちょっと当たっただけなんで、殴られたとかじゃないからアイツも悪くないッス」
まだコーチは納得いかないようだったが「勘違いした俺が悪いってことです」と言い切るとそれ以上は追求されなかった。
「そんで、前の練習中に飛鳥に負けたのが悔しくてつい大騒ぎしちまって、胸ぐら掴んですげー揺すったら目回ったみたいで、そんで、えっと……」
「いいよ鷹匠」
「よくねえだろ。殴られた相手庇ってんじゃねえよ」
「結局殴ったのか?」
「いや、殴ったっつうか。どさくさ紛れに頭突き食らわしちゃって。俺ヘッド得意じゃないッスか」
「このアホウ!」
「すんません」
戸惑いでいっぱの目で様子を覗っていた享に向き直って深く頭を下げた。
「飛鳥、悪かった」
くるりと回って母親にも謝った。
「あらあら、享はもう大丈夫なのね?」
「うん。頭も冴えてるしどこも痛くないよ」
「じゃあいいの。鷹匠くんももう頭を上げてね。男の子は喧嘩ぐらいするものだものね」
享によく似た目とふっくらした色っぽい口元でゆったり微笑んだ。
「母さん……あの、父さんには」
「わざわざ報告することでもないでしょ。たかだか子供の喧嘩ぐらい」
母親がいいというので瑛の両親へ連絡されることもなかった。享は家族に反対されていると言ったが、母親はそうでもないのかもしれない。
コーチたちが医務室を出て帰りの準備をしに行った隙に飛鳥が恥ずかしげに袖を引いた。
「……ありがとう」
「しおらしくなりやがって気持ちわりぃな。どうせほとんどホントのこと言っただけだろ」
「でも、寝不足のこと黙っててくれただろ?」
「お前が辞めさせられたら勝ち逃げみたいでムカつくんだよ。だから黙っててやるけど、代わりに練習前日はちゃんと寝てこいよな。調子悪い奴に勝っても何の自慢にもなりゃしねえ」
「うん、もうしない」
歳相応の顔で嬉しそうに笑った。そのときふと以前みた冷たい顔が頭を過ぎった。コイツを嫌いだと思ったきっかけの質の悪い表情と今の享が結びつかない。
(また俺の勘違い、か?)
母親と一緒に帰る姿を見送った。道路脇に植えられた街路樹の上にカラスがとまって真っ黒の目でキョロキョロあたりを観察していた。享の髪と同じ真っ黒の羽と真っ黒の瞳で。