賢い鳥1
平日の練習は夜闇の中からナイター照明で切り取られたグラウンドでやる。
光の当たる場所が特別な舞台のようで気持ちが盛り上がる気がする。
そんな光の舞台の外へ飛んでいくボールを見送った。闇に溶けこむグリーンのネットに当たって転がって、また光の中へ戻ってくる。
自主練のたびに瑛が享を引っ張って行く。一対一を挑んでは止められる。白っぽいボールが享の出した足にひっかかって明後日の方向に弧を描く。
「クソッ!もう何度目だよ」
「十三回目」
外野から誰かが教えてやったら睨まれた。二日前の練習日に散々練習していたのがさっぱり通じなくて名前のとおり鷹みたいな眦をさらに釣り上げている。
付き合わされている享も肩ごとため息をついて自分でボールを拾いに行った。瑛に回収されると間髪入れずにもう一回。さっぱりした性格の男だけど意外にしつこいところがあるんだというのを最近知った。享が入ってからだ。
それまではチームの中で瑛は飛び抜けていて、こんな風に何度も止められることはなかった。DFの連中の間にも「瑛が相手なら仕方ない」という空気が漂っていた。
今思えばそれで強くなれるわけがなかった。態度はつっけんどんでも最近の瑛は楽しそうだと思う。
「説明するから一旦やめよう」
「説明だぁ?!」
「自信満々に仕掛けたのが何で通用しないかっていう話だよ」
ボールを瑛に返して動きをゆっくり再現してみせる。足元からボールが大きく離れる直前でストップを掛けた。
「ほら、今右を見た」
「!」
「それから外側にちょっと体を振るから何しようとしてるかすぐ分かる」
「ゲッ。でも同じ技を何回もやってんだからンなの毎回一緒だろうが」
「でも七回目と十二回目は別のことやろうと思わなかったか?結局意地で思い直したみたいだけど」
「何でそこまでわかんだよ!」
「右を見る前にいつも見ない場所を見たし、全然勝てなくて焦ってるのが顔に出てたからそろそろかと思ってた。結局同じことの繰り返しを選んだようだけど」
語尾に絡んだため息が「頑固者」と言いたげで一層不機嫌にさせた。
誰にでも親切で真面目で、親に「飛鳥くんを見習いなさい」と言われても一言も言い返せない。享はそんな子供だった。
だからといって優等生ヅラをしているわけじゃない。くだらない話にも控えめながら参加するし大人に媚びているわけでもない。まだ入って数ヶ月なのにみんなのことをよく見ていて声をかけてくれる。
ちょっと大人びた笑顔と、練習中の厳しい顔。それから気遣わしげな顔と大人しそうな困り顔ばかり見せていた享が、こんな皮肉っぽい顔を見せるようになったのはつい最近だ。
そもそも瑛と一緒にやるようになったのも二週間ほど前からで、それまでは瑛の方が一方的に嫌っているようだった。
チームの中心にいた瑛と、正反対のタイプから好かれた享に事件が起きたのはやっぱり二週間前。二人がモメて享が倒れた。
その時に二人と、コーチや親の間で何があったかはみんな知らない。でも、子供同士の喧嘩に大人が介入するとろくなことがない。瑛の享への態度が改善されたのを見て享を悪く言い始めた奴がいた。
「親に言われたらタカも黙るしかねえじゃん」
享と同じDFだった。中学二年にもなればそれが瑛のためじゃなく自分の劣等感とか妬みでできた鬱憤だとわかる奴もいる。
黙っていてもそれに乗っかる奴は多くなかったと思う。でも、
「ごちゃごちゃ言ってんのはテメーだろ」
瑛本人が怖い顔をした。
それから周囲の動向を窺う視線もきにせず享に声をかけた。
『練習、付き合えよ』
全てはそれからだ。
享は頭から湯気が立ちそうな瑛に臆することなく続けた。
「来るのがわかってれば止めるのは結構簡単で、こう…こうしたら」
「…………チクショッ!」
周りから拍手が起こる。それに瑛が怒るのを見て享が噴き出した。
「でも、飛鳥くん一回目から止めてたよね」
「そうだ!その理由説明しろ!」
パッと顔を上げて食って掛かる瑛をじゃれかかった迷惑な犬にするみたいに避けて不思議そうに小首を傾げる。
「一回目?何度も見てるよ」
「あ?」
「この間波多野相手に繰り返し練習してただろ?」
「してた、けど……その間お前も別で練習してたじゃねえか!」
「ああ。でもずっと見てたから」
ドキッとした。瑛が黙ったからだ。
「タカが新しいこと始めたから。どうやったら止められるかって、いつも観察してるんだ」
「うちじゃタカが一番上手いもんなー」
「上達の近道ってやつ?」
どこか冗談半分の軽い調子で投げられた言葉をなんとでも取れそうな笑顔で享がいなす。こういう時の享は少しおっとりして見える。
「あ!そうだ。飛鳥にチェックしてもらったら上達するんじゃねー?」
「そっか!じゃあ俺も見てくれよ?」
「俺も俺もー!」
ぱっぱっと挙がった手はすぐに瑛に叩き落された。前のめりに享を囲んでいた仲間を押しのけて進み出ると、上体がほんの少し逃げかかった享の手首を捕まえる。
「お前は俺だけ見てろ」
顎を引いた顔にナイター照明の光が濃い影を作った。犬だったら猟犬だと思う。鼻っ面が長くて鋭い目と長い手足の。こんな顔で突進されたら逃げたくもなる。
「ずりぃぞ、タカ」
「うっせぇ!お前らコーチに見てもらえ」
どうしていいかわからない空気を何とかしようと茶化したのが裏目。瑛がちっとも笑わないので誰も割り込めない。
享が掴まれた手首を居心地悪そうに揺すった。
「勝手に決めるなよ。それに何が気に入らないのかわからないけど、そんな言い方ないだろう?」
子どもの喧嘩を仲裁する教師みたいな落ち着いた口調で。それでも動揺しているのが落ち着かない手元でわかる。
「タカだってきっと俺じゃなくコーチに見てもらったほうが勉強になるよ」
「それじゃダメなんだよ」
「どうして」
「お前に負けっぱなしだからだ」
「だったら余計に俺に手の内を見せるのは不利じゃないか」
「どのみちコソコソ練習するのは性に合わねえ」
「だからって…」
言葉を切って自由な方の手で額を押さえた。瑛は頭の回転は早い方だけど口が立つわけではない。理屈で争ったら享が負けるわけがない。瑛の言うのは屁理屈だ。それもいびつに組み立てた理屈じゃなく、破綻したまま力で押し通す。
譲る気がないのはすぐにわかった。
「仕方ないな。俺の練習にもなるから付き合うよ」
享が折れたと同時に拘束していた手首を開放してさっさとボールを蹴り始めた。
「タカの奴、勝手だよな」
「飛鳥に勝てないの、そんなに気にしてんのかな」
「……どうかな」
曖昧な返事をしたのは享だ。
「前から強引なところはあったけどこんなに自己中じゃなかったんだよ」
「そうそう。最近……飛鳥につっかかるようになってからかな」
「ライバル視してんじゃねえの?」
「ライバル、か。認められてるってことなら嬉しいけど」
「えー?嬉しい?飛鳥心広すぎだって。本気で嫌だったら怒っていいんだからな。俺たち味方する」
享はやっぱり曖昧な笑顔で「ありがとう」とだけ言った。それでも、二人が他人を巻き込むような喧嘩することはないような気がした。瑛に急かされて走りだした横顔がまんざらでもないように見えたからだ。