賢い鳥1
足元にボールを止めると遠くの車の音が聞こえてきた。一息ごとに汗が引いて剥き出しの肌が冷える。それでも風は泥と草が混じったような、春の匂がした。
中学校はとっくに春休みを迎えていた。宿題もあってないようなもので、朝から晩までボールを蹴っている。一年前とは違う、去年よりもずっとサッカー漬けの生活だった。
それでもまだ焦っていた。こうしている間もU-15日本代表は合宿や様々なチームとの試合を重ねている。代表は、逢沢傑は進み続けている。
額で冷えた汗を拭って時計を見るととっくに十時を回っていた。もう少し練習するのと迷ってから瑛は自宅へと戻った。やり過ぎないことも自己管理の内だ。体を冷やして体調を崩したら元も子もない。
半年前に根を詰めて練習していたら享に一日のタイムテーブルを問いただされた。起床時間から練習時間と睡眠時間。ついでに学校の成績まで確認されて「焦るな」と言われた。
『早起きして練習しても授業中寝てるんだろ。うちほど厳しくなくても成績が目も当てられないくらい落ち込んだら困る』
セレクション応募条件に申し訳程度に書かれている「文武両道」を唱えて無茶な練習スケジュールを訂正させた。出会った頃には享が身を削って文武両道を成立させようとしているのを瑛が諌めたのに、いつの間にか逆転している。それを言うと「余計に無理して自滅できないだろ?」と控えめな照れ笑いを見せた。
焦っているのは享も一緒だった。直接気持ちを尋ねることはないが、一緒に練習していれば嫌でもわかる。自分にも他人にも厳しくなった。練習中の細かい指摘が増えた。今まで黙っていたことを全て口に出すようにしたのだと言っていた。
『悪いところは何でも言い合ったほうがいいといっても受け入れる姿勢がなかったら逆効果なんだ。訊かれたら教えるつもりだったけど、現に訊いてこなかっただろ?』
親しくなってから猫は剥ぎ尽くしたつもりでいたのに、まだ一匹かぶっていたのかと思うと悔しかった。
詳しく話すようになって享が自分よりずっと長い目でモノを見ていることに気づいた。どうも医者である父親の蔵書にも手を出しているらしい。関係が上手くいっていないらしい父親から直接アドバイスを受けているわけではないのは予想できた。享こそまた休息時間まですり減らしているのではないかと疑いたくなる。
それでも享が倒れることは二度となかった。自律が服を着て歩いているような男だ。努力家で、同じ失敗は二度とやらない。頼れるパートナーだった。
それもあと一年っきり。
ジュニアユースチームを離れると同時に終わる。もし享がユースに進んでも、瑛は高校の部活でやると心に決めていた。
いつもダメと言われているのも無視してボールを蹴りながらマンションの五階にある自宅玄関を開けると母が待ち構えていて思わず踏み込むのを躊躇った。一言断って出かけたし怒られるほど遅くに帰ったつもりはない。
「アンタ携帯持って出なかったでしょ?」
おかえりもそっちのけ。しかし怒ってはいない様子なので靴を脱ぎ散らかしながら応じる。
「忘れた」
「じゃあ今すぐ携帯確認して欲しいの」
「何でだよ」
「さっき飛鳥くんのママから電話があってね、飛鳥くんが瑛のところに来てないかって訊かれたの。今まで飛鳥くんと一緒に遊んでたわけじゃないんだよね?」
「なんだよ、アイツがいなくなったって?」
「ハッキリとは言ってなかったけど、多分そう」
家出か。らしくない。享は親に黙って家を出るようなタイプじゃない。でも、動機はあった。
バタバタと自室に駆けこんでベッドに投げてあった上着のポケットを探る。生憎と着信履歴もメールの新着もない。数日前の履歴から享の番号を呼び出して発信する。しばらく呼び出し音を繰り返してダメかと思った頃に享は出た。
「オイ、お前今どこだ」
「…………」
「聞いてんのか。今どこいるんだよ。一人か?」
やや間があってから小さな声がした。
「…………うちから連絡がいったんだろ。ごめん」
「人の話聞けっつってんだろ」
「大丈夫。帰るよ。自分で母さんに連絡もしておくから」
「うるせぇ、ンなこと訊いてねえだろ。鬱陶しいからはいかいいえで答えろ」
「……」
「今、外だな」
「………はい」
後ろで微かに電車の音と車のクラクションが聞こえた。妙に素直に「はい」と言うのが子どもっぽくておかしかった。
「一人だな」
「はい」
「今どこだ」
「……いいえ」
「ふざけてんのか!」
「お前がはいかいいえで答えろって言ったんだろ」
「じゃあ地名で答えろ」
「嫌だよ。ちゃんと頭が冷えたら自分で帰るから放っておいてくれ」
「俺が親にチクると思ってんのかよ」
「そういうわけじゃない、けど……」
「いいか?はいかいいえか地名で答えろ。今から出かける。お前を見つけるまで帰んねー」
「タカ……」
心細そうな声。ポーカーフェイスで目の前にいられるよりずっと心が透けて見える。電話越しの方が享が近く感じる。
「居場所を教えろ」
「………………………………はい」
財布と上着をひっつかんで飛び出した。
「飛鳥くん探しに行くの?」
「まあな。あ、アイツ自分で家に連絡入れるってさ」
「うちに連れてきてもいいからね」
「ン」
それから財布に五千円札を一枚入れてくれた。
「アンタも飛鳥くんも危ないことしないでちゃんと帰ってくるって信じてコレ渡すんだからね?暖かいものでも買って食べな」
何かあったらサッカーが出来なくなる。それを子供たちは言われなくても分かっている。それを認めて信じてくれる。
母親のこういうところが好きだ。念押しに素直に頷いて家を出た。
電車で一駅、そこから歩いて十分ほどの場所に享はいた。
公園にいると言っていたのに近くのコンビニにいた。寒かったのかと思ったら、補導員とも思えない中年男に声をかけられて逃げてきたらしい。その意味を察すると迎えに来て良かったと思う。どんどん体つきが大人の男に近づいていく瑛に比べ享は筋肉の付きにくい体質なのか首もまだ細くてなまっちろかった。
「そんなんでビビってんなら最初から一人で家出なんてしてねーで友達んちにでも転がり込めよ」
「そんな風に迷惑かけられる友達なんていない」
「なんだそれ」
「俺が家出してきたなんて言ったらみんなビックリするだろ。するわけないって思ってる」
「そりゃ驚いたけどよ。どうせサッカーのことで親とケンカしたんだろ」
「……そう分かるのはタカだけだよ。他には誰にも話したことないから」
「…………」
チームの中で事情を知っているのは自分だけだろうとは思っていたが。
「じゃあ俺に連絡すりゃいいだろうが」
「連絡してどうするんだよ」
「こうして来てやる」
「要らない」
「変なオッサンにナンパされたくせに」
「ハッキリ言うな!」
嫌そうに自分の腕を抱えた。手の甲に深く筋が浮き出るほどきつくパーカーの布地を握り込む。声をかけられたと言うが、実際はもっと怖い目にあったのかもしれない。やっぱりもっと急いでくればよかった。
「俺がいたら変なヤツは声かけてこねえよ」
「同い年のくせに保護者ぶるなよ」
「背伸びてから大学生にも間違われるし腕力だってお前よりはあるっつの」