賢い鳥1
ここ半年ほどで身長がぐっと伸びた。享と出会った頃はあまりなかった身長差も十センチ近くまで開いている。実際の数字以上に大きく見られるのは元からがっしりしていた骨格に筋肉が乗ったせいだろう。
対する享は平均的身長ながら線が細くて手の指も細長い。日焼けしていた夏間はまだ逞しくも見えたが、元来の白い肌にもどった冬はひ弱に見えた。
言葉を途切れさせた享は右腕の袖をまくり上げ、瑛の服に包まれた左腕に並べた。瑛も同じように袖をまくる。白い腕とやや色の色素の濃い腕をじっくり見比べて、それから手のひらを合わせてみた。
そこまで比べた享はがっかりしたような顔で静かに息を吐く。
「俺だって筋トレしてるのに何でこんなに違うんだろう」
手の大きさはそう違わないが指は瑛のほうが太い。そのまま合わせた手指を組んで力いっぱい握り込む。享も負けじと力いっぱい握ったけれど先に根を上げた。握力勝負も瑛の勝ちだ。
「気にするほどかよ。長期的に考えてトレーニングしろって言ってたのお前だろ。それぞれ成長する時期がナントカって」
右手をさすりながら顔を上げて苦笑した。それもみるみるうちに曇っていく。
「…………父さんにさ、アスリート向きの体じゃないって言われたんだ」
「なに?」
「うちの父がプロのチームドクターやってたのは知ってるだろ。いろんな選手の体を見てきているから俺には向かないのが分かるんだってさ」
「だからどうしたっていうんだよ」
「今日、……飛び出してくる前に、父さんに本気でプロを目指したいって言ったんだ」
「…………」
「うちの学校はエスカレーター式だから高校受験はないけど、もう中三だろ。高校になったらいよいよ医大を目指して真剣に勉強しなくちゃならなくなる。予備校にも通えって言われるかもしれない」
「……医者になりたいのかよ」
「サッカーのプロにないたいって言ったろ。今だって勉強の時間全てサッカーに費やしたいって思ってる。だからそう言ったんだ」
でも理解されなかった。
淡々と話しているが享が父親を尊敬しているのも、今までずっと父親に従ってきたのも知っている。ぶつかり合ったのはセレクションを受けたあの頃以来かもしれない。この一年で随分親しくなったつもりだが、親と喧嘩をしたという話は聞いたことがなかった。
「それで怒って出てきたのか」
「……出来る限りの説得をしても聞いてくれなかった」
「クラブもやめんのか」
「やめない!……そこまでは言われてない」
崩れ落ちるように両手のひらに顔をうずめた。
「やっぱり馬鹿なことした。飛び出したりなんかしたら立場が悪くなるばっかりなのに……」
ここで素直に反省するのが享らしい。汚い公園のベンチの上に丸くなる勢いで後悔しているのがおかしくて思わず鼻息で笑ったら真っ赤な顔で睨まれた。
余計に面白かったが顔に出すのは我慢して腕をつかみ上げる。
「とりあえずうち行くぞ」
「え?」
「家に帰るんなら止めねえけど。うちのお袋がうちに連れてこいってさ」
「悪いよ」
「うっせェな。そんなんだから友達いねーんだよ」
面倒くさくなって享を置いて歩き出した。途中で何か食べ物を買って帰ろう。家にも何かあるだろうが折角小遣いがあるんだから使わない手はない。手付かずで持ち帰って徴収されても癪だ。
駅前の牛丼屋の前まできて振り返る。ちゃんと享はついてきていた。
「うちに帰って何食う?テイクアウトできるやつな」
「あんまりお金は持ってきてないからいい」
「じゃあ特盛り牛丼だな。二つ買って俺が食うからお前は余った分処分する係だ」
「…………並でいい」
券売機で特盛りと大盛りの券を一枚ずつ買った。
それからコンビニで紙パックのお茶二パックとプリンを三つ。一つは母の分だ。
まだ小遣いが残っていたので切符も享が財布を探っれいる間に瑛が二人分まとめて買った。
家の鍵はかかっていなかったのでそっと開けて入ると母がリビングで録画予約していたセリエAの試合を見ていた。
「飛鳥くんいらっしゃい」
笑顔で迎えられて面食らいながらも享は深く頭を下げた。
「おうちには連絡した?」
「いえ、まだ、これからです」
「そう。じゃあ今電話かけるから、途中でかわってね」
「はい、すみません。よろしくお願いします」
家出しても丁寧な享に苦い顔一つせずに軽快に電話番号をプッシュする。三年前に瑛が家出した時とはエライ違いだ。瑛のときはゲンコツが飛んできた。うちの子とかよその子とかいう差じゃなくてひとえに普段の素行の問題に違いなかった。
「どうも、お世話になっております。鷹匠です。……ええ、うちの瑛と享くんが一緒に帰ってきまして……はい。あ、いえ、瑛がムリヤリ連れてきたんですよ。…………そう、それで今日のところはうちに泊まっていってもらおうと思って……迷惑だなんてとんでもない!享くん本当に行儀が良くって、うちの子と同い年なんて信じられないくらいで」
いつの間にか悪口が混じりだしたのでスリッパを履いた母の足を軽く蹴ったら仕返しにつま先を踏まれた。サッカー少年の足に何をしやがる。
「そういうわけですからご心配なく。明日には帰しますから。……はい、享くんに替わりますね」
享に受話器を渡すと、母はそのまま台所で夕飯の残りの野菜スープを温め始めた。ダイニングテーブルの上に買ってきた牛丼とプリンを並べたら何も言わないうちに母が一つ確保して銀色のスプーンを乗せた。
「お電話ありがとうございました」
「どういたしまして。お風呂も沸いてるからね」
「すいません」
「先にこれ食べてちょうだい」
湯気を揺らしながらスープマグに盛りつけた野菜スープをテイクアウト用器で冷めた牛丼に並べる。二人が食べている間にふたり分のバスタオルと着替えが用意された。享の分は瑛の替えのスウェットだった。パンツも新品をだしてこようかと言われたけれど断った。
それぞれスープ一滴、米一粒残さず食べて手を合わせる。時間も遅かったので腹を休める間もなく風呂をすすめられて、享が譲らなかったので瑛が先に入った。
瑛と入れ違いに享が脱衣所に入る。そこでラベルのないシャンプーボトルの並びと脱衣かごの場所を教えた。普段から大人しい享が輪をかけて静かで視線が落ち着かない。借りてきた猫状態だ。いつもは伸びている背筋もやや猫背気味になっている。
面白がって眺めていたら、
「もう出てってくれ。脱ぎづらい」
目の前で着替えたことも何度もあるのに何を今更気にするのか。でも、嫌がるのを見ている理由もないのでリビングに引き上げた。
享の風呂はカラスの行水で十分もしないうちに出てきた。湯船に浸からなかったのかもしれない。首に張り付いた真っ黒な濡髪はカラスを思わせた。
「ドライヤーこれね。使ってね。それから享くん、悪いんだけどお客さん用の布団が寝室の押入れにあってね、その部屋でパパが寝ちゃってて出せないの」
「大丈夫です。僕はソファでもどこでも……」
「ううん。瑛の部屋に毛布と枕が運んであるから」
「ンなの適当にやるからもういいって」
「適当って、図太いアンタと一緒にしないの」
「あの、本当に僕はどこでも大丈夫なので……」
「えー、でも…」
「もう俺達でナントカすっから寝ろって!」